人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、日経ARIA読者にお届けします。『ミュージック・ライフ』の編集長を務め、「最もクイーンに近い編集者」として名をはせた音楽評論家の東郷かおる子さん。無名時代に取り上げたクイーンは日本から人気に火が付き、世界で大ブレイク。その後もチープ・トリック、デュランデュランと日本発の人気を後押しし、32歳でミュージック・ライフの編集長に就任します。
(1)クイーンに最も近い編集者、ロックに憧れた駆け出しの頃
(2)日本で火が付いたクイーン人気、世界へ 東郷かおる子 ←今回はココ
(3)ロックとともに駆け抜けた日々、ツキを呼んだミーハー魂

海外アーティストの来日公演が増えていた1970年代前半、私は『ミュージック・ライフ(以下、ML)』編集部で盆暮れなく仕事をしていました。そんななかで聴いたクイーンのテスト盤の『炎のロックンロール』は、コーラスも楽曲も刺激的だった! 74年3月号の新人コーナーで紹介すると、予想以上の反響でした。
翌年、初めての海外ひとり取材でニューヨークへ。ある人気バンドのコンサート取材だったのですが、実は彼らの前座が新人のクイーンだったのです。クイーンは英米でもまだ無名でしたが、ハードロックバンドながら日本の女性ファンに受けるに違いないという、他のバンドにはない可能性を感じました。
その日の夜、食事していたレストランでメンバーのロジャー・テイラーに遭遇。当時、ニューヨーク在住だった『ML』の先輩、水上はるこさんに助けてもらいながら、「日本で洋楽雑誌を作っていて、先月号にあなたたちを紹介したの。よかったら取材させてくれない?」と声を掛けると、快諾してくれました。そのときは、このバンドと最も長く付き合うことになるとは思いもよりませんでしたが。ちなみに、マネジメントが今ほど機能していなかったとはいえ、アーティストに直接取材の交渉をするのは掟(おきて)破りではありましたけどね。
ジャズやオペラの要素を取り入れたクイーンの音楽にはドラマ性がありましたし、なんといってもファッショナブル! Tシャツにデニム、無精ひげのアメリカのバンドと違い、ボーカルのフレディ・マーキュリーの、ビジューが付いたキラキラ衣装に濃いメイク、黒いネイルというどこか倒錯的、背徳的な雰囲気はすてきでした。
当時の『ML』は英米の音楽雑誌の情報をもとに編集していましたが、私はアーティストの生の声を届けられる日本独自の視点でのインタビューを増やしたいと思っていました。『ML』で積極的にクイーンのインタビューを紹介するうち、日本での人気が高まり、75年の初来日では空港に大勢の女性ファンが詰めかけました。
日本で人気に火がついたクイーンは、75年の『ボヘミアン・ラプソディ』がイギリスのチャートで1位となり、77年の『ウィ・ウィル・ロック・ユー』などがアメリカでも大ヒットし、世界的に人気となりました。彼らのヒットは素直にうれしかったです。クイーンの人気は『ML』が育てたという自負がありましたから。