人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、日経ARIA読者にお届けします。奈良を拠点に世界的活動を続ける映画監督の河瀬直美さん。第1回は養父母に育てられた生い立ちから、映画専門学校へ入学して映像撮影の魅力にのめり込むまでを語ります。
(1)高熱と共に映画の神様が降りてきた ←今回はココ
(2)出産現場で知った丸裸の命の尊さ
(3)心に生き続けるかけがえのない時間
映画監督

幼い頃はとても強い人見知りをする子だった。特に男の人が近づいてくると拒絶反応を示し、激しく泣いていたと聞く。理由は定かでないが、思い当たることはある。わたしはまだ若い母が父と暮らしていたときにできた子どもだったが、産まれる前には別居をし、産まれてすぐ子どものいない伯母夫婦の元に預けられたのだそうだ。別居の理由は父の暴力だと母は語った。妊婦の母を階段から突き落としたとか、家に仲間を連れてきては夜な夜な酒を呑んで騒いだとか、とんでもない話を聞いたとき、わたしの男性嫌いは母のおなかの中で芽生えたのだろうと察した。
養女にしてもらった老夫婦はなんでもない日々の暮らしを丁寧に営んでいる人たちだった。わたしはゆっくりゆっくり人を信頼することができるようになり、閉ざしていた心は解き放たれていった。養父は自然に触れる生活が好きな人だった。休みの日には山や川に出かけ、山菜を摘んだり柿を採ったりした。近くの田んぼではカラスノエンドウがなる時期にその豆の部分を摘んで笛にして鳴らす遊びを教えてもらった。わたしはそれが大好きで、ある日とても大きな豆を見つけて家に持ち帰り、庭に大きな深い穴を掘ってそれを植えた。その豆が芽を出して育ってゆき、ジャックと豆の木のように家の屋根を超えて空のかなたまで伸びてゆくことを毎日毎日期待した。けれど、その豆はいつまでたっても芽を出さず、わたしの生活からは忘れ去られてゆく。
小学校時代はとてもまじめな生徒で、とにかくひとつのことにこだわり集中した。宿題は学校から帰ってきてすぐにすませてから遊びに出かける。夕ご飯前に近くの公園に迎えに来てくれる養父母の姿が大好きだった。わたしにとっての幸せのカタチはあの光景が根底にあるのだろうと思う。中学校に上がるまで夜の8時には床に就き、朝の7時までぐっすり眠った。幼少の頃はすぐに扁桃腺を腫らす体の弱い子だったが、中学校に入ってバスケットボール部に所属すると、体力もついて病気にかかりにくくなった。好き嫌いの激しい子だったが、今ではほとんどなんでも食べることができる。きっかけは定かでないが、単に食わず嫌いなだけだったのかもしれない。