人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、ARIA読者にお届けします。モデル・タレントとして活躍するアンミカさんの2回目では、デビュー当時を振り返ります。モデルとして走り出したキャリアは、決して順風満帆というわけにはいきませんでした。
(1)骨折も割り箸で固定した貧乏生活
(2)モデルのキャリアを休止し韓国留学 ←今回はココ
(3)仕事への自信が結婚につながった
モデル・タレント

「明日、撮影があるけどよかったら来ない?」
モデルとしてくすぶっていた19歳のとき、京都でのファッションショーで、ロバート・ショーナーさんに声を掛けられました。ショーナーさんはハイブランドの広告も手がける著名なフォトグラファー。そのときに撮影した写真が、ロンドン発のファッション誌『i-D MAGAZINE』に掲載され、私の写真と衣装デザイナーが注目を集めたのです。それがきっかけで、彼の来日時に呼んでもらえるようになり、私のコンポジット(プロフィール作品)はスタイリッシュなものに変わっていきました。
それを携えて、パリ・コレクションに再挑戦。写真の力は絶大で、かつてオーディションで落とされたモデル事務所からもお声が掛かり、20歳で念願のパリコレデビュー! アライアなどの上顧客向けのショーや、気鋭のデザイナーが地下駐車場などで開催するアバンギャルドなショー、ビューティービーストなど旧知の日本人デザイナーのショーに出演。4年ほど、日本とフランスを行き来する生活を送りました。もちろん、悔しい思いをしたことも山ほどあります。あるハイブランドのショーに起用されて感激していたら、身長が同じケイト・モスのリハーサルモデルだったことも。それでも、ナオミ・キャンベルなどのスーパーモデルと同じ空気を吸えた自分が誇らしかったです。