人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、日経ARIA読者にお届けします。フリーアナウンサーの草野満代さんの第2回です。24歳で東京に異動し、全国ニュースを担当。「抜てきされたのは若い女性だから」と感じながらも、試練を乗り越えて仕事に手応えを得ていきます。その後、男性社会の枠組みにしばられず仕事をしたいと、29歳で独立を決めたのでした。
(1)話すのが苦手な私がアナウンサーに
(2)男性社会から自由に、29歳で独立 ←今回はココ
(3)本当に好きなことに気づいた40代

「輪島の千枚棚で田植えが始まりました」。NHKの金沢放送局時代に私が読んでいたニュースは、こんな穏やかな内容がほとんどでしたが、24歳で東京アナウンス室へ異動し、朝のニュース番組『モーニングワイド』(現在の『おはよう日本』)の担当になると状況は一変。東西冷戦構造が崩壊し、世界が激動する中、ベルリンの壁崩壊、旧ソ連のゴルバチョフ大統領の誕生など、扱う内容は世界規模になりました。「私が全国ニュースなんて」と臆する一方で、「どうすれば伝わるか」を必死に考える日々。そんなとき、先輩に言われました。「技がない君に変化球なんて無理なんだから、直球でいいんだよ」
少し肩の力が抜けました。それからは、今の私にできることとして、小手先のテクニックよりも、「伝われ!」という思いや“念”を大事にするようになりました。
とはいえ、仕事ぶりは散々だったと思います。「思います」というのは、実は当時のことはほとんど覚えていなくて。それくらい、毎日必死でした。1つ覚えているのは、局内を歩くたび先輩方に呼び止められ、「今日の発音さ……」と注意されていたこと。また数メートル歩いては、別の人に呼び止められることの繰り返し。それほどに、出来が悪かったんでしょうね。
そんな私の唯一の取りえは、よく言えば素直、悪く言えばバカだったこと。先輩方の助言は本当にありがたく聞いていました。なぜなら、私は実力が認められてここにいるわけではないことを、自分でもよく分かっていましたから。
