「現実世界の向こう側」を感じる瞬間

 どのオーケストラにも精神的な支柱になっているような指揮者がいるのですが、都響との深い結びつきでとりわけ印象に残っているのが、2008年に亡くなったジャン・フルネというフランスの指揮者です。

 演奏しているのは生身の人間だし、音は物理的に出ているのだけれど、「この指揮者と演奏している人たちは、現実世界を超越した、向こう側の世界に行っているな」と分かる瞬間があります。神の恩寵(おんちょう)のように崇高なものが指揮者には見えていて、オーケストラも共有している。そういう瞬間が、フルネと都響の演奏のときには数多くありました。

 僕は20代前半にインドへ放浪旅行に出て世界は広いことを知り、文化人類学者になっていくのですが、高校生の頃は、自宅から学校まで井の頭線で10キロにも満たない距離をひたすら往復する日々でした。なんでこんな東京の片隅の狭い世界で、僕は毎日満員電車に揺られているのだろう……そんな閉塞感を抱えていました。

 でも、月に数回演奏会へ足を運ぶことで、時に心が震える瞬間に出合い、「向こう側の世界」を体験することができました。私たちは日々、思い通りにならないことの多い現実的な世界を生きさせられているのだけれど、「出口」はある。10代でそれを知れたことは、僕にとってすごく大きかったのではないかと思います。

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取材・文/谷口絵美(日経xwoman ARIA) 写真/鈴木愛子

上田紀行
東京工業大学教授 リベラルアーツ研究教育院長
上田紀行 1958年生まれ。文化人類学者、医学博士。東京大学大学院博士課程単位取得退学。86年からスリランカで「悪魔祓(はら)い」のフィールドワークを行い、その後「癒やし」の観点を最も早くから提示。現代社会の諸問題について提言を行うほか、日本仏教の再生に向けた運動にも取り組む。東京工業大学大学院准教授、リベラルアーツセンター教授を経て、2016年4月から現職。代表作『生きる意味』(岩波新書)をはじめ、『愛する意味』(光文社新書)、『立て直す力』(中公新書ラクレ)など著書多数。