オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。
(上)五輪最多、5つのメダル「限界を突破する恐怖」を超えて
(下)シンクロ武田 引退後は指導者、母、政治家の妻として ←今回はココ
3度目の五輪に向けて競技との向き合い方に変化
―― 3度目の五輪出場となる2004年のアテネ五輪後は、ちゅうちょなくシンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)から引退したように見えましたが、葛藤はなかったのですか。
武田美保さん(以下、敬称略) 「アテネ五輪が最後」と決めて練習していたので、何の未練もなかったですね。実は、2001年の世界水泳選手権で立花美哉さんとのデュエットで金メダルを獲得した時、一瞬「もういいかな」と思ったこともあったんです。
一方で、大きな希望も見えたんです。シンクロ界はそれまでロシアが圧倒的に強く、芸術性やしなやかさなどが評価されていました。ですが、私たちが金を取ったことで「日本発の表現力」が世界基準になるかもしれないという希望です。さらに、当時の演目『パントマイム』はキレやスピード、動きのメリハリなどを追求したもので、私の得意分野でもありました。ペアを組む立花さんとの協調性も、完璧とまではまだいっていなかったですし、もっと高い次元にまで行ってみたいとアテネ五輪を目指すことにしました。
アテネ五輪で納得して引退するために、井村雅代先生に与えてもらう練習メニューをこなすだけでなく、自分の意見を交換しながら進めていける関係になりました。デュエットはそもそも体形が似ている2人が組むものですが、私と立花さんでは身長が5㎝も違い、手足も立花さんのほうが長い。一方、私には音感やキレの良さ、力強さという武器があったのですが、それよりも、とにかく世界基準の高さを持つ立花さんに合わせることを求められていました。それが苦しくてつらくて、毎日のように自己対峙です(笑)。
そしてたどり着いたのが、自分を消して立花さんに合わせるのではなく、自分の持ち味を生かした上で立花さんに合わせることでした。
