オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。
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予想外の五輪出場 自分をコントロールできなくなった
―― 1992年のバルセロナ五輪前に「燃え尽き症候群」に陥り、その後はどう立て直したのですか。
小鴨由水さん(以下、敬称略) 米国で合宿中に父と中学の恩師がわざわざ会いに来てくれました。監督に「五輪を辞退したい」と訴える私に、中学の恩師は「これまでお世話になった方々のために走ってもいいんじゃないか」って。その言葉が心に突き刺さった。それまで一度も親孝行をしていないことに気づき、父や母のために走ってみようと心新たにしました。
五輪に向かう前、私が苦しんでいたのは、実は減量です。20歳そこそこだとまだホルモンバランスも安定していないし、減量が苦痛で苦痛で……。大阪国際の前は172cmで48kgぐらいだったけど、直後に急に太りだし、これではいけないとまた減量。自分の体重をコントロールできない自分が嫌になりまた食べ物に手が伸びる……。いわゆる摂食障害です。五輪直前に地元の応援団が開催してくれた壮行会レースに、そんな状態で出場した私は、何と完走した13選手中12位。体重は理想から8kgほどオーバーしていました。
今考えれば、思いもしなかった五輪出場が決まり、周りの期待も感じるようになって、自分で自分をコントロールできなくなっていましたね。だから、五輪本番では完走したけど29位という成績は、出場する前から決まっていたように思います。ただ、身体がつらくて、何度も足を止めようと思いながらも完走した自分を、有森裕子(バルセロナ五輪2位入賞)さんじゃないけど「褒めてやりたい」とひそかに思いましたね(笑)。
