60歳過ぎても働く そのために今からできること
京都にある高齢者総合福祉施設「山城ぬくもりの里」。そこには自身より若い人たちを介護する91歳の職員がいるといいます。週3回、午前10時〜午後5時30分までみっちり現場に立つのは、看護師の細井恵美子さん。なぜこのように長く働き続けることができるのか、その秘訣に迫りました。
戦後の悲惨な状況を目の当たりにして芽生えた気持ち
編集部(以下、略) 現在は高齢者総合福祉施設「山城ぬくもりの里」の顧問とのことですが、どのような業務をこなしているのですか?
細井恵美子さん(以下、細井) これといって決まった仕事はありませんが、主に利用者の方たちの話を聞いたり、介護職の研修の手伝いをしたりしています。認知症として入所されている方もいますが、私は認知症を特別視したくないと思っています。人それぞれの老い方、変化だと考え、一人ひとりの尊厳を守りながら、その人らしく過ごせるよう日々サポートに当たっています。
―― ずっと看護師としてキャリアを積んできたと思いますが、なぜ今は介護の現場に?
細井 長い人生なので話すと長くなるのですが(笑)、私が看護師の資格を取得したのは16歳の時。教育基本法が変わる前の時代だったので8年間あった小学校を卒業してすぐ看護婦養成所に入りました。私は農家の娘だったので、お金持ちの子のように女学校に行けず、悔しい思いをしていました。
看護師として働き始めた1948年ごろ、舞鶴港にシベリアに抑留されていた人や満蒙(まんもう)開拓で働いていた人たちが帰港してきました。私たちは検疫所でその人たちを迎え、病気やケガのある人を病院に搬送し、看護しました。中には凍傷で両腕を切断している人、家族にも会えずにその日のうちに亡くなってしまった人、命からがら帰ってきた人がたくさんいました。
そんな中、元軍人が立派な軍服を着て軍歌を歌いながら下船する光景に出会いました。感じやすい年ごろだった私の胸には、反骨精神が芽生え、それと同時に病気やケガをした人たちの人生を思いやる姿勢が生まれたように思います。
その後、病院で出会った患者と親しくなり19歳で結婚して、20歳で出産。両親の理解が得られなかったため結婚式もせず、家出同然でした。その後、夫は回復しましたが職場に戻らず、私が働いて生計を立てていく必要がありました。