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福島を代表する農産物の一つ、桃。毎年夏になると、首都圏のスーパーにも甘い福島の桃が並びますが、実は産地以外の消費者は「最もおいしい状態の桃」を食べることができないのを知っているでしょうか。果物の中でも特にデリケートな桃は出荷基準が厳しく、完熟する前に出荷したものしか流通していないのです。
「私たちはシーズンになると1日3食、それこそノルマのように完熟桃を食べているんです。県外の人は、この『本当の味』を知らないなんて……。それに、ちょっとやわらかくなったり傷がついたりしただけで行き場をなくした大量の桃を農家さんのところで見て、おいしいのに売れないのはもったいないし、理不尽だと思いました」。そう話すのは、福島市で2016年、37歳のときに桃の加工品を製造・販売する会社「ももがある」を起業した斎藤由芙子(ゆうこ)さん。
長年、仙台で音楽活動中心の生活を送り、地元の福島にはほとんど帰ることがなかったという斎藤さんはなぜ「桃の会社」を始めることになったのでしょうか。
「音楽活動を続けるため」が就職の目的だった
子どもの頃からさまざまな楽器を演奏することが好きだった斎藤さんは、中学時代に出合ったヴィオラに夢中になり、東京の音大を受験。しかし希望は叶わず、東北で音楽科がある宮城学院女子大学へ。この大学生活で、その後の人生に関わる出来事を経験する。
「お嬢様が多い音楽科の中で私は割と異質な感じで、同じような個性的な子たちとつるんでいました。その仲間と学園祭で何かやりたいねという話になり、学内の音楽堂でステージイベントを企画。当時ゴスペラーズがはやっていたこともあり、音楽堂は響きがいいので、仲間数人でアカペラで歌うことにしたんです。それがすごく気持ちよかった。
私は父親の仕事の都合で転校が多く、ずっと目立たないように生きてきたのですが、そんな自分にちょっとモヤモヤしていました。このときくらいから、思い切って行動する楽しさに目覚めた気がします」
その後、斎藤さんたちは仙台の秋の風物詩となっている「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」に出演。新聞に取り上げられたことからイベント出演の依頼が舞い込み始め、「卒業してからも続けたいね」とみんなで話すようになった。
「音楽活動を続けるためにはとにかく仙台で就職しなくては」と考えた斎藤さんが最初に就いたのは、テレビ局の番組制作の仕事だった。