「越境」がキャリアを強くする
「私、老害になったらどうしよう!」。外資系の大手製薬会社、日本イーライリリーで働く杉浦めぐみさんが最初にプロボノをやってみようと思い立った動機は、40代になってセカンドキャリアを想像したときに芽生えた不安でした。会社員生活はいつか終わりが来る。そこから先、私は外でもちゃんと人の役に立てるのだろうか……。
50歳になった今、杉浦さんにかつての不安はありません。会社員の仕事とさまざまなコミュニティでの活動が自分の中で有機的につながり合い、充実した日々を過ごしています。杉浦さんを「理系ワールド」の閉塞感から解放し、自分のスキルを広い場で生かす面白さに気付かせてくれたもの。それは、プロボノと、大学院での2度の学びでした。
自分が知らない価値基準に興味 30代で最初の越境
1996年に日本イーライリリーに就職した杉浦さんは神戸の本社で社会人生活をスタート。米国本社で作られた薬を日本で製造・販売するため、臨床試験を行って有効性や安全性を確かめていく開発職に従事します。以来、現在まで勤務先はずっと同じですが、30代前半に一度退職しています。
「夫が東京へ転勤することになり、2年で関西へ戻るという話だったので、この機会に東京でビジネススクールに入ってキャリアアップしようと考えました。ただ、当時はまだ社内に勉強のために休職する制度がなかったんです」
その頃の杉浦さんは、仕事に少し行き詰まりを感じるようになっていました。「大学以降、ずっと理系ワールドで生きてきた私は『科学的に正しいことは正義である』というマインドセットでいました。でも、いくら私が科学的に正しいと考えても、ビジネスの観点から見ると必ずしも物事が前に進むわけではありません。科学的に価値があると提案をしても『ビジネスとして認められない』という理由で却下されることが、当時の私には理解できませんでした」
そんなとき、社内にはMBA(経営学修士)候補生のインターンが何人も来ていて、「彼らと話すと、なんだか違う言語をしゃべっているように感じられた」と杉浦さん。「どうやらビジネススクールというところには自分が知らない価値基準や判断軸のようなものがあるらしい」と興味を持ちます。
2003年に慶応義塾大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)に入学すると、「人によっても業界によっても、ものの見方や考え方が全く違うんだということに目を開かれる思いでした。私はサイエンス命!と思っていたけれど、『いや、ビジネスとして長続きすることが社会に貢献することだよね』と言う人もいる。違っていることが面白いと思えたのはすごく大きかったです」。
このときの経験が、杉浦さんにとって外の世界への初めての大きなジャンプになりました。
その後、夫が関西に戻る話がなくなり、杉浦さんは東京勤務の形で古巣に再就職します。40代になり、新薬開発のプロセス全体を統括するプロジェクトマネジメントを担当して3年ほどたった頃、ふと頭に浮かんだのが「会社員人生があと20年を切っているな」という思いでした。