客観的な事実も、時代とともに変容する

 第2章の野田聖子さんへのインタビュー記事では「多様性のない社会は不自然だ」という考えの中で、「自分たちから見れば納得のいかない意見をも受容できなければいけない」と書かれていました。私は「確かにそうだよな」と思う半面、間違った事実に基づいた考えは正す必要があるとも思います。「1+1は3だ」という意見まで受容していては社会を形成していくのは大変です。「1+1は2」という客観的な事実に基づいた上で、「1+1は3」になる場合だってあるという主観的な事実(それぞれの考えやアイデア)が受容されるなら良いと思います。

 ただ、この客観的な事実というものがくせもので、これは時代とともに変化する場合があります。例えば、脳の研究は日進月歩で、昔とは全く異なる新しい事実が解明されてきています。このことからも私たちは、「これまで事実だと思われていたこと」から離れ、「今、新しく事実だと分かっていること」を共通の知識として身に付ける必要があるわけです。駄言は「起きた現象」に対する「自身の固定観念(客観的な事実だと思い込んでいるもの)」とのギャップからも生まれるでしょうから、やはり、出口さんが指摘している通り、駄言をなくすためには、日々の勉強が大事なのでしょう。

「嫌だ」と思ったら勇気を出して声を上げる

 『#駄言辞典』の第1章に紹介されている駄言の横には、「こう言い返せばよかった」というコメントが複数見られました。本当にその通りで、「言い返せばよかったのだろう」と私は思います。駄言を言われて「嫌だ」と思った人が、勇気を出して「嫌だ」と声を上げなければ、その駄言を言ってしまった人は、自分の発言が駄言であったことをいつまでも知り得ないし、アップデートされる機会もないからです。きっと、別の人に対しても、ずっと駄言を言い続けてしまう可能性があります。

 私たちには誰かの発言に傷つけられてもなお、「嫌だ」となかなか声を上げない傾向があります。「あの発言に傷つくのは、自分だけかもしれない」「皆はどう感じるのだろう」「自分だけが嫌だと正直に伝えたところで悪目立ちして、皆を敵に回さないだろうか」……とあれこれ考えてしまう。

 しかしながら、実際は、自分が「嫌だ」と思った時点で、その感情は紛れもない事実。そのときに反射的に「嫌だ」と言えることがこれからは大事になってくるのではないでしょうか。社会が多様性を重視する方向に向かっているのであれば、一人でも「嫌だ」と感じる人がいれば、その声はみんなが知るべきでしょう。

 ただ、ケンカ腰で「言い返す」必要はないと思っています。相手を打ち負かすことが目的なのではなく、相手と理解し合って、その後も人間関係を構築していくために自分の本心を伝える、というのが本来の目的です。「言い返す」のではなく、別の言葉に「言い換える」のです。

 例えば、「女性が活躍する社会」と言われたのが嫌だったら、「男性も家庭で活躍できる社会になるとよいですね」と言うとかね。ちょっとユーモアを交えて、良い言い方に言い換えてみるというイメージです。

 ちなみに、私が所属する(父親の育児参画を後押しするNPO法人)ファザーリング・ジャパンでは、「女性活躍推進法」の法律にある「女性」という文言を「男性」に、「職業」という文言を「家庭」に言い換えた「男性活躍推進法」というものを考案しました。このパロディー版を厚生労働省の役職の人に聞いてもらったことがあって、反応も良かったです。ネット上にありますので、ぜひチェックしてみてくださいね(「【公開用】FJ育休施策提言2019」で検索)。

「駄言を言われたときには『嫌だ』と声を上げることが大事ですが、ケンカ腰で『言い返す』必要はない。別の言葉で『言い換える』のがポイントです」(塚越さん)
「駄言を言われたときには『嫌だ』と声を上げることが大事ですが、ケンカ腰で『言い返す』必要はない。別の言葉で『言い換える』のがポイントです」(塚越さん)

* 下編は、近日中に公開する予定です。

取材・文/小田舞子(日経xwoman)