衝突が生んだ「専業主夫パートナー」のストーリー

── 原作にはなく、オリジナルで作った回(第8話)について教えてください。専業主夫のパートナーを主題にした回を設けたいという山戸さんと、そうではないプロデュースサイドと、意見が対立したそうですね。

山戸 そうですね、あくまで集団制作に必要な過程としての議論がありました。プロデュースサイドからは、「専業主夫の話は入れず、女性主人公個人の物語として完結させるべきだ」という意見があり、それにも一貫性が認められます。一方で私は、性役割のはざま、ジェンダーバランスの中で起こったひずみというのは、女性も男性も等しく感じ得るものであり、属性を越えた普遍的なメッセージを込められるはずだという意見を持っていました。選択肢として、フラットにどちらもあり得たと考えています。

 制作当時、こうした意見の違いを目の当たりにしたからこそ、「(専業主夫という)男性におけるマイノリティのエピソードを入れるべきだ」という確信は深まりました。「女性の問題」「男性の問題」と、相互作用せずに切り分けられてしまうことこそ、病理そのものではないかと。ジェンダーバランスの揺らぎは、両性にとって当事者的な重要性があるはずですから。

平岩 第8話には「問題は性別ではなく、役割のせいだ」というセリフもありました。問題は性別役割やジェンダーにまつわるステレオタイプなんですよね。

 トキコの元パートナーのタツヤが言った「俺もトッキーが炊事や家事を続ける機会を奪ってたっていうことだよね」は名ゼリフでした。まるで2050年の作品を見ているのかなと思うぐらい、鋭いなと。対照的に、トキコがタツヤに家庭内のケア労働を任せていたために「働く機会を奪ってごめんね」と謝る場面もありました。

 女性の社会進出が進めば、トキコとタツヤのように女性が稼いで男性が家事・育児をするペアも増えていくはずですよね。既存のジェンダーロールが無効化するまで、その役割分担は推進されてほしい。ただそれと同時に、誰が家計を支えるにしろ、お金を稼ぐことを立派とみなし、ケア労働やシャドーワークといわれるような家事・育児を下に見る価値観が広まっているようにも感じます。そこには注意が必要かなと。

 再生産労働とも呼ばれる家事・育児は、人の暮らしの根幹を成すエッセンシャルワークなわけですから、「男性の家政進出」がうたわれたほうが健全なんじゃないかとも思います。

── 日本社会はまだまだドラマの中身と比べたらもっと手前にいて、男性は仕事、女性は仕事・家事・育児という現状があります。山戸監督はその社会構造を問題視している、という背景があったのでしょうか?

山戸 性別役割を入れ替える思考実験によって、現況の社会基盤がより強固に感じられたというのはあるかもしれませんね。時代は前進しながらも、社会通念は強固であり、「男性なのに、稼ぎもなく家にいるの?」「母なのに、外で働いて家を空けているの?」という無責任な目線は、当事者にとって、とても苦しいものですよね。

 「男性が社会規範から逸脱して生きることの困難」を描かなければ、ジェンダーギャップがもたらす生きづらさについて、片面の話(女性側)だけを整備開拓し、このドラマの幕が閉じられることになる。単方向的な、一方的な語りに落ちてしまうのではないかという危機感がありました。

 そのような過程も含め、第8話のパートナーシップを巡っては、完全なフィクションとして創作する判断となりました。このドラマの内部から、より普遍的な思考可能性を示してくれる、大切なエピソードだと考えています。

日本社会のジェンダーフェアネスの実態を語る上で、数字は共通言語になる

── 以前のインタビューで、山戸監督は「男性が描く女性像と、女性が描く女性像は違うから、映画界で描くべきものがあるとしたら、まだ半分しか描かれていない」という言葉がありました。映画やドラマに限らず、商品、サービス、法律なども含めて、主に男性が中心となって作り出してきたものの中で、私たちは生きている。それらには刷り込み作用があって、「そういうものだ」という固定観念を持ってしまいがちです。

山戸 これまで見過ごされてきた意見を可視化したり、物事のオルタナティブ(代替)な面を提示したりしてゆくことは、より多くの人に選択肢や可能性が手渡される、生きやすい社会にするために必要ですよね。だからこそ、女性の声、女性の意見を届ける必要がある。

 しかし、リアリティとして、「女性は…」と言ったときに、ここには非常に多くの、それぞれ思想の異なる女性が存在していて、活発な女性、控えめな女性という性格の違いも、個人差も世代差も当然含まれています。「人間は…」というのと同じくらい大きな主語なんですね。

 また、女性の関わる物事には、「女性○○」というように、属性があえて有徴化(※)されることも多いです。しかもそれは多くの場合、自称ではなく他称です。だからこそ、当事者の声が必要になります。女性であることをコーティングしてくる外部からの言葉に抵抗し、女性の内実を丁寧に語り継いでゆくこと。その上で、「女性は…」と社会的なリプレゼンテーション(表象、再現)を高めてゆくこと。個人個人が使うには、とても大きい主語だけれど、「人間は…」と言ったとき、その大きな主語に押しつぶされ、秘匿されてきた女性の声を社会に取り戻すために、現在的に有用な方法でもあります。「女性」について語りながら、「人間」についての語りを拡張してゆくというイメージです。

※ 有徴化…社会学などの用語。特徴のない「普通」と、「普通」でない特徴のあるもので区別すること。例えば、女性の医師を「女医」と呼ぶのは有徴化の一例。男性の医師を「男医」と呼ぶことはない。

 そのような方法論を考えながら、メッセージを発信する際に、クィア(※)についての研究や活動に関わる皆さんの言論に影響を受けることも多くあります。性別やセクシュアリティ自体が唯一の主語なのではなく、ある社会のマイノリティとして、マジョリティとどう対話し、親和的な境界を見つけてゆくのかという現実的な営みに共鳴しています。性別を超えたところで対話するためにこそ、性別の問題を的確に対象化してゆく知性が必要とされているということだと考えています。

※ クィア…性的マイノリティの総称

── 以前インタビューしたとき(2019年春)と比べて、日本社会の性差別の実態は改善されていると思いますか?

山戸 肌感覚や印象のレイヤーでお話しすれば、改善されてきたとも言えるし、反動で分断が深まっているとも言えるのだと思います。また、私個人の範囲ですと、友人や身近に接する方も、比較的リベラルな発想の持ち主の方が多いので、コンテクスト(背景や心理)を共有した上で会話が進む機会は少なくありません。

 しかしそうした個人レベルのコミュニティを超え、社会全体についての変化を問う際は、肌感覚や印象論ではなく、事実ベースにおける「以前と比べて、女性の管理職は何%増えたのだろう?」という問い、身近な世界であれば「女性の映画監督は何%増えたのだろう?」という問いにおいて、その答えとしての男女比が50:50に遠く及ばない現状においては、数字を基盤に話すことが一番の共通言語になることは放棄できません。

 過去21年間、日本で作られた大作映画の97%は男性の監督の手によるものであり、女性の監督の作品は3%であるというデータが「Japanese Film Project」(日本映画の労働問題の検証・提言を担う団体)による調査に提示されています。

 映画を作る上で、監督は決定権を持ってリーダーシップを発揮する立場にあり、絶対数として女性はマイノリティです。社会全体の中でも、管理的立場において決定権を持つ女性は、圧倒的マイノリティに当たります。移り変わる情報イメージの中で、大きく様変わりしたかのように錯覚してしまいますが、向き合わなければいけないのは、そうした全体的で現在的な機会損失の実態なのでしょう。

 ジェンダーアンバランスが示された数字は常にシビアで、表に出てこなかった機会不平等をも想起させます。壁の前に立ち尽くす人々へのエンパシー(共感)を忘れずにいたいと思います。それはこうしてこの世界で働き続けている私たちが、幸運にもこの仕事に巡り合えた自分自身が、次の世代に対して積極的に関与し、可視化してゆくべきファクター(要素)なのだと思います。

 働く女性の語りは、きっと今どれほど語りすぎたとしても、なお語り足りないほどであることから、目をそらさずに語り続けたいと考えています。

構成/小田舞子(日経xwoman) 写真/稲垣純也