作品を通してジェンダーというテーマに真正面から取り組む映画監督の山戸結希さん。『溺れるナイフ』『21世紀の女の子』などでメガホンを取り、2021年4月にはテレビドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』のシリーズ構成・監督も務めた。前回のインタビュー「山戸結希 女性という枠ではなく個性を評価されるために」からの変化は? 映像作品を取り巻く環境は? 改めて聞いた。(取材は日経xwoman編集部と、映画やジェンダー問題に詳しいフリー編集者の平岩壮悟さんが行いました)

【山戸結希さんインタビュー】
(上)山戸結希 経済的・精神的に自立した女性を描きたかった
(下)山戸結希「責任取ることへの覚悟」を女性も背負う時代に ←今回はココ

「男性作家主義的な思想の持ち主」と言われて

「男性には積極的に弱くなる勇気が必要で、女性には積極的に強くなる勇気が必要です。その先に、性別で評することを恥じるような世界が待っていると信じています」(山戸さん)
「男性には積極的に弱くなる勇気が必要で、女性には積極的に強くなる勇気が必要です。その先に、性別で評することを恥じるような世界が待っていると信じています」(山戸さん)

山戸結希さん(以下、山戸) 私は一人のリーダーとしてチームを引き受けるときに、「男性作家主義的な思想の持ち主だ」と評されることがありました。でも、そのような発言自体が「女性ならば女性作家然として振る舞ってほしい」という規範意識から来るものであり、その意見のほうが倒錯(とうさく)していると思っています。人間は多面体であり、そのような女性らしさ、男性らしさの二元論を越えて、複雑に性質が混じり合ったところに個人が存在しているはずですから。

 私は女性ですが、自分自身の意見を強く持っています。意志のある人間です。議論もしますし、例えば強い態度で反論されたとしても、絶対に心は折らないと決めています。ものすごく古い言葉の組み合わせではありますが、「弱い男性が増えてゆくこと」と「強い女性が増えてゆくこと」は、過渡期の人々が直面する課題です。つまり男性には積極的に弱くなる勇気が必要で、女性には積極的に強くなる勇気が必要です。その先に、人を性別で評することを恥じるような世界が待っていると信じています。

平岩壮悟さん(以下、平岩) 今後数十年ぐらいは、男性が弱さを見せていくフェーズなのかもしれませんね。これまで数百年間、強さを誇示しつづけてきたわけですから。以前、ファッションカルチャー誌の編集部にいたとき、男性の弱さを誌面上で表現するのが難しいと感じていました。ファッション誌であればまだ「弱さ(の開示)=かっこいい」という戦略が取れるのですが、例えばスポーツ誌やビジネス媒体が「男性の弱さ」を肯定的に扱えるかというと……。

山戸 メディアのあり方も問われますよね。例えば日経xwomanなどのメディアで、女性のリーダー像が可視化されることは、本当に重要です。女性のリーダーの絶対数が少ないと、女性のリーダーはそれぞれのコミュニティで、「女性のくせに出過ぎている」「女性のくせに和を乱す」……つまり、「女性らしい女性ではない」と言われてしまう。けれども、その数や連帯が認知されることによって、「女性」の中身を書き換えてゆくことができるんです。メディアの伝えるイメージやメッセージも、未来の女性が働きやすく、生きやすくなる道につながっているんですよね。こうしたメディアを成立させつづけるうえで、逆風や困難は避けがたくあると思いますが、それぞれの環境の中で闘っている女性の存在に励まされる、数え切れない物言えぬ女性がいることを、同時代的に感じています。

 デザイナーのマリー・クワントが、ストリートファッションから引用し、ミニスカートを発表したときも「女性はつつましやかに生きるべきだ」と最初は言われましたが、「女性も活発に動き回る身体を持ち、外交的に生きる権利がある」という流れに、社会の側が変わっていきました。こうしたことができるのは、メディアや芸術、つまり「物語」の力だと言えます。今の日本では、恋愛ドラマにおいて「君は強い女だ」と言われた女性が「うれしい! ありがとう」と返すというシーンは、逆張りにおいてしか成立しませんよね。でも、その逆張りの一手を繰り返すことによって、人々の意識、慣習は変わってゆくのだと思います。人間だからこそかなえられる営みを、これまでの歴史は証明しています。

平岩 「新しい男性像」で言えば、映画やドラマ、小説なんかのほうがよっぽど描けているなと思います。

過渡期における女性のリーダーという立場

山戸 女性のプレイヤーが増えれば、現場のルールや空気は必ず変わっていく。産休・育休の制度も、セクシュアル・ハラスメントに対する意識も、その現れの一つかもしれません。

 より複雑な話になりますが、過渡期における女性のリーダーには、より強く期待され、引き受けることになる負荷があります。それは、「女性がリーダーなら、このチームの中ではハラスメントはないはずだよね」「産休・育休が取りやすいはずだよね」という組織変容への期待です。あくまで同じ権限において、「女性だからといって、同じ権限の範囲でそうした問題を完璧にケアできるわけではない」という現実的な側面があるにもかかわらずです。ただ、そのような現実をおいてなお、そうした期待を外的に引き受けることで、目の前の障壁や実害を一つでも減らせるのであれば、やはりそれを境に変えてしまったほうがいい。「女性リーダーのチームは働きやすい」という先行例を実際につくれたら、次の世代にもポジティブな影響がありますし、そうした「女性の物語」が多くなればなるほど、組織全体の常識やポテンシャルを変えてゆく波を生むことになります。

 現在はリーダーという立場、管理職という立場には、圧倒的に男性が多い社会ですが、これが未来50:50に限りなく近づくとき、「女性リーダー」「女性管理職」という呼称は無事に無意味化します。その瞬間まで、今お話ししたような負荷と新しい可能性との表裏一体の構造は、続いてゆくことになるだろうと考えています。