増田 リポーターを始めてすぐ、取材とはなんと面白い仕事なのかと思いました。同時に、人に伝える仕事をすることで、それまで自分は授業を一方的にやっていたことに気づきました。教え方が変わり、やりがいを見いだし、どんなに大変でも教師の仕事はずっと続けようと決心するきっかけにもなりました。

── 教員と取材のWワークが大成功だったのですね。

池上 当時から増田さんのリポートは見事でしたよ。リポーターのなかにはディレクターに言われた通りにやっているだけの人もいましたが、増田さんは明らかに自分で取材をして、自分の言葉で話していた。

増田 当時の池上さんはとにかくすごく怖かった。(笑)

やり通したことが次につながり自信になった

── 増田さんは一度NHK横浜放送局を辞められた。

増田 学校とNHKの仕事で昼夜なく夢中で働いていたら、中継の前に血を吐いてしまって。ただ、体調が回復すると、やっぱり取材がしたいんですね。タイミングよく、東京の放送センターでオーディションがあったので挑戦し、合格しました。始めたことはやり通す性格で、1つ1つの仕事にきちっと向き合ってきたことが次につながっていったのかなと思います。

── さまざまな職場を経験されて、理不尽を感じることもありましたか。

増田 セクハラ、パワハラは日常茶飯事でした。職員旅行では、「テレビに出て、いくらもらってるんだ」と男性教員たちに詰め寄られたり、「テレビの仕事があるから大丈夫だろう」と私だけリストラされたり。29歳の12月です。なりふり構わず職探しをしました。恥ずかしいなんて気持ちはなかったですね。出身大学の就職課で、「まだ正社員になる気がないのか」って怒られましたけれど。(笑)紹介された高校の非常勤講師の面接の日は、NHKのリポーターの仕事が直後にあったので、黄色いスーツを着て行きました。

池上 よく採用されたねえ。

増田 後で聞いたら、「これでうちの高校には新しい風が吹くからね」と校長はおっしゃっていたそうです。

池上 私だって、会社員時代は理不尽なことばかりですよ。特に社会部で警視庁捜査一課担当記者のときは、他社と特ダネを争う毎日。朝5時に上司からの電話でたたき起こされて、「(特ダネを他社に)抜かれてるぞ、すぐ追っかけろ」と。即、捜査員の家に電話をすれば、「てめえ、何時だと思っているんだ、バカヤロー」でガッチャン。受話器を持ったまま涙がにじんできましたよ。捜査員から話を聞くために、深夜まで家の前で待つ夜回り。午前2時に帰宅して風呂入って寝て、午前5時に上司の電話で起こされる。1年のうち約360日がその繰り返しでしたから。警視庁担当時代に地獄を見たので、それ以降、世の中につらい仕事ってないんです。

── 増田さんの最初の著書は35歳のときですね。

増田 全国の学校を毎週取材してラジオの教育番組を作っていたら、それを本にしないかと出版社から声を掛けていただいて、それをきっかけにNHKの仕事を辞めました。書くことで食べていけるなんて、夢にも思っていませんでしたよ。無計画、成り行き任せな私ですから。ところが直後に、夫が大学教員を辞めてしまって。私が大黒柱にならなくてはと、再びの就活で、出版社に入りました。

池上 編集長までやったよね。

増田 とはいえ契約社員ですよ。しかも私が編集長に就いたことが気に食わない上司に部下を減らされ、著者に原稿料も払ってもらえないなどひどいパワハラを受けた。自分で取材も執筆も撮影もして、広告営業にも行きました。でもそのおかげで、見切りをつけて退社後、広告でお世話になった会社からお仕事が来た。そのギャラで、初めての海外取材に行ったのです。

── お二人ともNHKをスパッと辞めていますが、大きな「看板」を失うことに迷いはなかったのですか?

増田 私の場合は、もともと職員ではないですから。正規職員とは雲泥の差があるわけです。例えば私がつくった番組がよくできていたとしても、それは一緒に組んだ職員の手柄になる。それが組織に属さない人間の立場です。限られた時間のなかで番組を作るために要領良く仕事するとか、組織で生き抜くために調子よく振る舞うとかもできないし、したくない。それが私です。だったら、自分から環境を変えるしかないですよね。

池上 日本の会社組織って、正社員とそれ以外で待遇や育て方に大きな格差があります。正社員はゼネラリストとして育てるために、いろんなことを経験させる。私の場合でいえば、口の堅い警察官から話を聞き出すという経験を通して取材力をつけさせ、他へ異動させる。一方、非正規の人については、育てようという発想がない。ただし正社員の場合でも、育てるために厳しい仕事もさせているのではなく、単なるブラック企業で、使い捨てで放り出そうとしている場合もありますからね。

── そこを見極めるポイントはありますか?