問い抜く力の大切さ、そのメソッドを提案した新刊『忘我思考 一生ものの「問う技術」』から、正解主義から距離を置くことの大切さを僧侶・伊藤東凌さんが語ります。「答えには正解と不正解があり、正解でないものは不正解である」。現代人の心のもろさの一因を、このような強固なパターン思考にあると指摘する伊藤さん。心を損なう「正解VS不正解」の二元論にとらわれないためのヒントとは?
(1)自己肯定感の落とし穴 それ「自我肯定」じゃないですか
(2)「自分の心と向き合う」技術 心を主役から外すには?
(3)「正解などない」と割り切ろう 心を損なう正解主義 ←今回はココ
これは考える時間? 考えない時間?
臨済宗には老師から公案というお題をいただき、それに対面で答える修行があります。いわゆる禅問答というやつです。「狗子仏性」(くしぶっしょう、犬に仏性はあるか)、「隻手の声」(せきしゅのこえ、片手で拍手した音とはどういうものか)といった有名な公案を、ご存じの方も多いと思います。
たかだか3年間の修行ではありますが、老師との対話という特殊な体験は、私の幼いころからの自問自答体質を決定的にエスカレートさせました。あまり内実はお教えできないのですが、修行は自分のリミッターを振り切るまで行います。公案らしい公案に取り組むようになってからは、本当に途方に暮れたものです。考えても考えてもハッキリとした答えが出ません。坐禅をしている間もずっと考えざるをえず、困惑したのを覚えています。「これは考えないようにするための時間なのか、考えるための時間なのか?」と。
「正解VS不正解」の二元論が心を損なう
このときの体験が、中途半端に思考を止めず、どこまでも考える私自身の習慣を強固にしたと思います。それにも増して私に取って重要なのは、答えのない問いに答えを出すために考え抜くことの意味と意義が、心に深く刻まれたことです。
私たちは学校教育の中で、「問題には答えがある」と思い込まされながら育ちます。「答えには正解と不正解があって、正解でないものは不正解である……」。現代人の心のもろさの一因は、このようながちがちのパターン思考にあるのではないでしょうか。「正解VS不正解」という二元論が、どれほど人を苦しめていることか。
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