しっかり向き合えば何歳からでも体は変わる。それを体現している方々の秘密に迫る連載。7歳で視力を失った塩谷靖子(しおのや のぶこ)さんは、視覚障害者に大学受験の道を開き、全盲のプログラマーに。42歳で出合った声楽で新たな才能を開花させて79歳の今もリサイタルは満席という。マイクを使わずにホール全体に響かせるクラシックの発声をどのように維持しているのか。トレーニングの様子を見せてもらった。

東京に来たら音楽が洪水のように押し寄せてきた

ソプラノ歌手でエッセイストの塩谷靖子(しおのや・のぶこ)さん
ソプラノ歌手でエッセイストの塩谷靖子(しおのや・のぶこ)さん

編集部(以下、略) 塩谷さんは52歳で声楽家としてデビューしたそうですね。音楽との出合いはいつごろだったのですか?

塩谷靖子さん(以下、塩谷) 子どもの頃から音楽は好きでした。緑内障で幼い頃から視力の弱かった私は、7歳のときには完全に視力を失いました。その頃、家族とともに鳥取県から東京に引っ越してきて、私は東京教育大学附属盲学校に入学しました。それまで学校にピアノもない田舎に住んでいたので音楽に触れる機会も少なかったのですが、東京に来た途端、音楽が洪水のように流れ込んできたように感じました。

 童謡も、歌謡曲やクラシックも、いろんなジャンルの音楽を聴くうちに、私はクラシックが好きだと思いました。

 学校で音楽の時間にちょっと歌をほめられるとうれしくて、自分でドイツ語を学んではドイツ語の歌曲を歌うのが楽しくて。大好きな趣味として、ピアノを弾ける友人を捕まえては伴奏してもらい昼休みに歌うのが好きでした。私はピアノも弾けませんでしたし、プロとして音楽の道に進むことは考えていませんでした。

 当時、盲学校で高校を卒業した後は、マッサージや鍼(はり)を学ぶ理療科へ進むものだという考えが主流でしたので、私も理療科へ進みました。鍼灸(しんきゅう)師の資格を取って働かなければと思っていましたが、妹が就職し、母もフルタイムで働いていたので、「急いで働かなくてもいいよ、大学に行きたければ行ってもいいよ」と言われたんです。

視覚障害者の理系大学進学の道を開拓

 突然大学進学の道が開けたので、何を学ぶか考えたのですが、数学の先生が数学を学んだらと勧めてくれました。高校で微積分に出合って興味を持ったんです。四則演算とは違う、「限りなく近づく」といった極限の状態を求める微積分の世界に美しさを感じていました。

 1年間文化放送の大学受験ラジオ講座を毎晩聞いて受験勉強したのですが、当時理系の学科で点字受験をさせてくれる大学がなく、東京女子大が唯一受け入れてもいいと言ってくれて、担任の教師と一緒に面談に行きました。そこで「三次関数を図で書いてみて」など、視覚障害者が数学や図形の概念を理解できているのかいろいろと質問され、先方も私が理解できていることが分かったので「じゃあ受験してもいいよ」と受験することを許されました。

 学内には視覚障害者は私だけ。講義は健常者向けなので、板書するときに言葉で言いながら書いてほしいと教授にお願いしても完璧にということは難しく、後でクラスメートにサポートしてもらって補うことができました。私の入学後、視覚障害者に理系の門戸を開く大学が増えたようで、都内の大学にはテキストを点訳するサークルができはじめ、夫ともそこで出会いました。

 私は大学でフォートランというコンピューター言語を学んでいたので、卒業後は日本ユニバック(現ビブロジー)にプログラマーとして嘱託で採用されました。当時まだ紙ベースで行っていた職員の給与支払いをシステム化する仕事を任されたり、点字で印字できるシステムを作ったりしました。

 1人で開発する仕事なら問題ないものの、健常者とのチームワークは難しくて、3年ほどで退職しました。その後は盲学校の非常勤講師をしたり、盲ろう者で今は東京大学教授である福島智さんや、その他の盲ろう者の指点字通訳をしたりしていました。

塩谷さんが開発した点字プリント。普通のプリンターと紙を使いドットやコロンで表現した点字を印字すると、機械と紙の間にはさんだデニムの生地がクッションになって紙に突起が出るように工夫した
塩谷さんが開発した点字プリント。普通のプリンターと紙を使いドットやコロンで表現した点字を印字すると、機械と紙の間にはさんだデニムの生地がクッションになって紙に突起が出るように工夫した

―― ずっと音楽とは関係ないお仕事をしていたんですね。では声楽を学んだきっかけは?