各界で活躍する方々が、自身にとって忘れられないクラシック音楽の一曲と共に人生を語ります。今回登場するのは、クラシック音楽の分野を中心に活躍する通訳者の井上裕佳子さん。世界三大歌劇場の1つである米国メトロポリタン・オペラの日本代表としても活動しています。もともとジュリアード音楽院でピアノを学ぶなど、まさにクラシック一筋に歩んできたかに見える井上さんですが、進路の選択は、意外にも「でもしか」が多かったそうで…。
(上)就職に挫折 音楽通訳者の道は「でもしか」から始まった ←今回はココ
(下)いい通訳ができたときは自分が透明になる
私は長年、主にクラシック音楽の分野で英語通訳の仕事をしてきました。また、2007年からメトロポリタン・オペラの日本代表を務めています。米ニューヨークにあるメトロポリタン歌劇場(MET)は世界最高峰のオペラハウスの1つで、06年からはオペラファンの裾野を広げようと、舞台公演を世界各地の映画館でライブ配信する「METライブビューイング」をスタート。同年から日本でも上映されることになり、日本側の窓口として、契約関係の実務的な対応や字幕監修などを担当しています。
日本では時差の関係上、現地での公演をライブ配信しても映画館に足を運べる時間帯ではないので、METと交渉し、日本語字幕をつけて数週間遅れでの上映を行っています。
日本代表としての仕事で最も大変なのは字幕監修です。METライブビューイングの特徴の1つに、幕あいの休憩時間に舞台裏で行われる出演歌手へのインタビューがあります。字幕は文字数や表示のタイミングなどさまざまな制約の中で、ともすると「きれいな日本語にまとめること」が優先されがちです。でも、ステージを終えた直後のスターの素顔を垣間見られる貴重な機会だからこそ、彼らが何を伝えたいかを正しく理解し、字幕に反映することを大切にしたい。現地から映像が届いて数週間で仕上げるというのは、一般的な字幕制作に比べるとはるかに厳しいスケジュールですが、毎回翻訳者さんとギリギリまで話し合いながら、できる限りアーティストの意図に沿った字幕を作っていきます。
大学時代、ザルツブルク音楽祭で初めて生のオペラを観劇
小学校低学年から父の仕事の関係で米国のニューヨーク州で育った私は、大学はジュリアード音楽院のピアノ科に進学しました。母がピアノの教師をしていたこともあって自然とクラシックに親しみ、選んだ進路でしたが、演奏家になりたいと思ったことは一度もありません。さらに言えば、通訳も目指してなったものではなく……。私の選択はいつも「でもしか」なんです。
ジュリアードの学生たちは、夏になると世界各地の音楽祭に出かけていきます。どの音楽祭でもマスタークラス(公開授業)が開催されて、さまざまな先生の指導を受けることが可能です。私は1985年の夏にオーストリア・ザルツブルク音楽祭のピアノのマスタークラスに参加。その際、仲のいい同級生がウィーン・フィルでアルバイトをしていて、オペラのチケットを取ってくれることになりました。演目はビゼーの「カルメン」。生のオペラを見るのは初めてのことでした。