米国での生活が長く、日本語力を磨きたいという動機で通訳学校へ入ったことがきっかけで、音楽通訳者としての道を歩むことになった井上裕佳子さん。経験を重ねる中で、通訳において最も大切なことが、かつてピアノを学んでいたときに身に付けた考え方と共通していることに気づいたといいます。人と人のコミュニケーションをつなぐスペシャリストとして、井上さんが「いい仕事ができた」と感じる瞬間とは?

(上)就職に挫折 音楽通訳者の道は「でもしか」から始まった
(下)いい通訳ができたときは自分が透明になる ←今回はココ

多様性、女性の生きづらさ…時代性を反映した新作オペラに反響

 米ニューヨークにあるメトロポリタン歌劇場(MET)では毎シーズン、25作前後のオペラを上演しています。映画館でのライブビューイングが始まったのは、2006年に総裁に就任したピーター・ゲルブの危機感がきっかけでした。

 METの収入のうちチケットの売り上げは4割程度で、多くをパトロンと呼ばれる方たちからの寄付金に頼っています。パトロンは高齢の方々が多いので、いわゆる古典的な名作オペラを今まで通り見続けたいと思いがちです。しかし、彼らのニーズに応えるコンサバティブな劇場のままでは若い層を引き付けられず、METの観客の年齢層は上がり続け、近い将来誰もいなくなるとゲルブは気づいた。劇場がこの先も生き続けるためには新しい取り組みをし、より広い層の方たちにオペラを見てもらえるようにしなくてはという思いで、ライブビューイングを始めました。

 発想としては野球をヒントにしたそうです。野球好きの人の多くは、まずテレビ中継を見て好きになってから野球場に行きますよね。オペラも、映画館の高品質な大画面映像と迫力ある音で体験したら、劇場に行ってみたいという気持ちになって足を運んでくれるのではないか、と。

 ゲルブは演目についても意欲的に変革を進めています。例えば昨年の2021-22シーズンのオープニングを飾ったのは、テレンス・ブランチャードというジャズミュージシャンが作曲した新作。黒人が主人公で、幼い頃に受けた性的虐待を乗り越えた実話を基にした物語です。また、若くして死んだ妻を夫が冥界へ迎えに行くギリシャ神話「オルフェウスとエウリディーチェ」を、これまでにない妻の視点から描いた新作も上演されました。こうした新作はしばしばチケットが完売。ダイバーシティやインクルージョンなど、時代性を反映したストーリーに興味を持って、今までオペラを見たことがない方たちもたくさん来始めています。

 さまざまな価値観があっていいということを提示すると、多くの人の共感を呼びます。そうすると、また別の作品も見てみようかなということにつながっていきます。毎年上がり続けていたMETの観客の平均年齢は、新型コロナ禍の影響もあって65歳から52歳程度まで下がりました。

 現在METは2022-23シーズンの開幕中で、昨年12月に上演された「めぐりあう時間たち」もチケットが完売した現代作品の1つです。02年公開の映画が知られていますが、この物語では作家、専業主婦、編集者という三者三様の女性の人生が、時空を超えて交錯します。さまざまな社会問題をあぶり出していると同時に、いろいろな局面や制約下に身を置かざるを得ない女性にどういう選択肢がありうるのかが描かれます。

 日本では23年2月にライブビューイングが上映されるので、女性の方たちだけでなく、男性にも見ていただきたいですね。すべての人がそれぞれ独自の人生を歩んでいることを意識するきっかけにもなるし、いろいろな状況で悩み苦しむ人たちがいると知ることにも意味があると思います。

2022年12月に世界初演された新作オペラ「めぐりあう時間たち」より。METライブビューイングでは、23年2月3日(金)~9日(木)、東京の新宿ピカデリー、東劇ほか全国で上映(東劇のみ2月23日まで) (C)Evan Zimmerman/Metropolitan Opera
2022年12月に世界初演された新作オペラ「めぐりあう時間たち」より。METライブビューイングでは、23年2月3日(金)~9日(木)、東京の新宿ピカデリー、東劇ほか全国で上映(東劇のみ2月23日まで) (C)Evan Zimmerman/Metropolitan Opera
「『めぐりあう時間たち』は、現代に生きる女性たちが学べることがたくさんあると思います」
「『めぐりあう時間たち』は、現代に生きる女性たちが学べることがたくさんあると思います」