投資ファンドを組成して企業の再生や成長を支援する仕組みが日本にも必要だと感じ、メガバンクでのキャリアを手放し43歳で起業することを決意した安東泰志さん。大きなリスクを背負って立ち上げたファンドは順調に投資で成果を上げ、会社も急激に成長していましたが、思いがけない妬みに足をすくわれ、それまで積み上げてきたすべてを失います。どん底の状態から安東さんはどうやって再び前に進むことができたのでしょうか。
(上)企業再生のプロ、20代はシカゴ響の「田園」が心の支え
(下)妬みを買ってゼロから再び創業、藤田嗣治の絵に救われた ←今回はココ
派閥争いの世界から離れたつもりだったのに…
43歳のときに銀行を辞めた理由は先に述べた通りですが、実はもう1つネガティブな要素がありました。企画部門という中枢部にいたことで、ドロドロとした人間関係やいわゆる派閥抗争のようなものもいや応なく目の当たりにしていたんですね。そこで生き残っていくことはできるかもしれないけれど、全然やりたくない。一度きりの人生、意に染まない世界からは離れて、自分にしかできない仕事に挑戦したいと思いました。
それなのに、逃げてきた世界がまさか追いかけてくるとは。古巣の銀行で私のファンドを支援してくれていた役員に対抗意識を持つ別の役員や豪腕と言われた元上司が、「安東は不届きな金をもうけている」と行内に根も葉もない悪評を広め、会社をつぶそうとしてきました。話を聞いてみると、給料が自分より高いのが問題だとか、意味不明なことを言われる。要するに、成功を収めている私が気に入らなかっただけなのです。そうなると、ファンドで稼いだカネを自分の懐に入れる目的でそれに相乗りするあさましい連中も続々と出てきました。
争うことにうんざりした私はその古巣の銀行出身者に社長を譲り、自分が創業したフェニックス・キャピタルを去ることにしました。
2006年10月、会社を分割する形でニューホライズンキャピタルを創業しました。かつてのように古巣の協力も得られず、ゼロからの再出発です。新たな投資家のところに行って何とかお金を集め、再びファンドをつくりました。2年後にはリーマン・ショックがあって資金調達が困難になり、自分の全資産を投じて何とか乗り切りました。
どうにか前に進むことができたのは、1つには自分が世の中のためにならないことをした覚えはなかったからです。多くの企業を再生し、投資家や投資先には評価され、古巣の銀行にも多額の利益を還元していました。
そして会社を分割するときに、社員の半数以上が私についていきたいと言ってくれた。全員を受け入れることはできませんでしたが、多くの人が来てくれて、彼らへの責任を果たすためにも先頭に立って頑張らなくてはと思いました。ようやく今は会社も順調になっていますが、以前のような状態に戻るまでに10年以上かかりました。
藤田嗣治の絵と出合ったのはちょうど05、06年ごろ、人を妬み陥れる嫌な世界に無理やり引き戻され、すべてを失ったショックでしばらく軽井沢の別荘に引きこもっていたときです。