「目の見える人」がサポートするという発想はない
ある美術館のスタッフは、それまでずっと湖が描かれているとばかり思っていたものが、実は原っぱであったことに、白鳥さんに説明をしているうちに初めて気づかされます。また、白鳥さんに説明しようとみんなで感想を述べ合っているうちに、作品の神髄にまで到達してしまうことも。
ここには、「目の見える人」が「目の見えない人」をサポートするという発想はありません。見えない人と一緒に作品を鑑賞し、伝えるために懸命に見て、それを言葉にすることで、自分の思い込みに気づいたり、見方が変わったり、それまでなかった見方が生まれたりする。見えない人の存在があるからこそ、見える人はよりよく「見る」ようになっていく。
身体的な条件の異なる人たちが関わり合っていくことの面白さ、豊かさ。そこに気づかせてくれるのがこの本の魅力です。
そして、それは、まさに特別支援学校との交流を通して、生徒たちがみんなで何かを探っていく感じに通じるように思えるのです。
「日本語と日本手話は別の言葉」、言葉が違えば見ている世界も異なる
関連してもう一冊、身体的な条件が全く異なる家族を描いた『異なり記念日』(齋藤陽道著/医学書院)を紹介したいと思います。
著者の齋藤陽道さんは、プロの写真家。生まれた時から耳が聞こえませんが、家族は聴者。幼い頃から補聴器を付けて日本語の訓練を受け、日本語を第一言語として育ちました。妻の真奈美さんは、家族が全員、ろう者という家庭で育ち、母語は日本手話。
齋藤さんによれば、「日本語と日本手話は別の言葉」で、言葉が違えば見ている世界も異なるのだそうです。こんなに異なる二人のところに、三人目の家族、聴者である樹さんが生まれてきます。
この本には、異なる条件を持った3人が、異なったままでつながっていく日々が描かれています。
私が好きな場面は、樹さんが上手に体を使って「月」や「太陽」を表現しているのを見て、齋藤さんも、体を使ってその日の天気を樹さんに伝えるのが日課になる場面。
たとえ「晴れ」の日が続いても、日差しの強さや雲の形など日々変化していく自然現象に、体が生み出す「ことば」は微妙に「変わらされて」しまう。そうやって体を使った「ことば」で表現することで、「同じ日なんて一日もないんだ」と齋藤さんは気づくんですね。毎日が新しい一日なんだという気づきは、異なる者たちが一緒にいて日々交流するからこそ見えてきたものなのです。