女性活躍推進に多くの企業が取り組む今においても、取締役に就任する女性はまだ限られた存在だ。トップを走る彼女らが、経営の中枢を担うまでにどのようにキャリアを磨き、どんな道のりを歩んできたのか。2019年、ラジオの在京キー局で女性初の社長となったニッポン放送代表取締役社長の檜原麻希さんに話を聞いた。
(上)ニッポン放送社長 「社外の縁」からアイデアが生まれる ←今回はココ
(下)檜原麻希 女性初の役員、絶対に断ってはダメだと思った
編集部(以下、略) 2019年6月に社長になられて、まもなく丸4年ですね。
檜原麻希さん(以下、檜原) 社長就任の翌年には新型コロナウイルス禍になったので、ほぼ、コロナと共に歩んだという感じです。何があっても放送を継続しなければいけない中で、スタッフにも出演者にも感染者が出るし、イベントは中止になるし。大変なことも多かったですが、これまで経験したことがない対応を迫られたのはどこも同じ。ある意味、いろんなことをしっかり考える機会でもありました。結果として、以前からの懸案だったデイタイムの番組について、時間をかけて企画し、大きな改編ができました。また、コロナ禍でラジオを聴く人がすごく増えましたね。
20年の緊急事態宣言の頃はメディア全体の接触率(ユーザーにどのくらい利用されたかを示す指標)が上がり、ラジオにも多くのリスナーが帰ってきました。世の中が以前のように戻りつつあるこれからが、本当の勝負だと思っています。
「語学力が生かせたらいいな」で何となくニッポン放送へ
―― 初めに、檜原さんがニッポン放送に入社した経緯を聞かせてください。
檜原 就職活動をする際、具体的な希望は特に思い描いていなかったです。幼少期を英国、高校時代をパリで過ごした帰国子女だったので、どちらかというと語学力を生かせるところがいいかな、という感じでした。大学3年生のときだったか、かなり早い時期にマスコミ就職セミナーがあって、友達に誘われて参加したら、そこでニッポン放送から声がかかったんですね。ラジオは若い頃から聴いていたし、まあいいかと思ってあまり深い考えもなく入社を決めました。それほど採用人数が多くなかったこともあり、四大卒の同期入社の男女比率は半々でした。
私が就職した1985年は男女雇用機会均等法が制定された年。男女関係なくスタートラインは一緒だという意識は、自分たちの中では普通にあったと思います。
初めにラジオの制作部門を経験した後は秘書室に移り、通訳要員として海外の映画祭やイベントなどにも行かせてもらいました。メディアって、一般的な企業で働くよりも多種多様な人に会える機会がありますよね。人とのコミュニケーションは嫌いではないので、いろんな経験ができてよかったと思います。
―― キャリアの転機になるような印象的な出来事や出会いはありましたか。