中国の農村部で生まれ育ち、18歳で日本の短期大学に留学した金松月(きん・しょうげつ)さん。4年制大学に転入したものの、結婚・出産を機に帰国。その後、再び来日して通訳や翻訳、中国語教室を手掛けつつ、縁があって美容機器メーカーのARTISTIC&CO.(岐阜県羽島市)に経理社員として入社。その後、子会社のARTISTIC&CO. GLOBAL取締役に就き、2年目に156億円という驚異的な売り上げを記録した。17歳の娘を育てるシングルマザーでもある金さんの半生を振り返りつつ、多様性や女性活躍についての考え方を聞いた。聞き手は平田昌信(日経xwomanプロデューサー)。

中国の貧しい農村部出身、高校卒業後、日本留学へ
――まずは金さんのプロフィールを教えていただけますか。
金松月さん(以下、金) 中国吉林省の貧しい農村部の出身です。小学校の同級生は8人しかいませんでしたが、成績はいつもトップでした。でも、経済的な理由から離れた場所にある中学校へは行けない。担任の先生が「中学校に行かないともったいない。私がなんとかします」と言って、使い古した教科書をいろんなところから集めてくださり、私は親戚の家に預けられて中学校に通うことができました。
高校時代はアルバイトに明け暮れました。高校を卒業したら日本に留学したいと思っていましたが、日本で何を勉強するか明確な目的があったわけではありません。日本の専門学校は授業料が高いので、日本語ができないにもかかわらず入学金などの安い大学を探してもらい、奈良県にある白鳳短期大学に入学しました。
大学時代もアルバイトをして、留学するための借金100万円を、月2%の利子を含め1年ほどで返済しました。もちろん授業にもちゃんと出席して、ほぼすべての単位を1年ほどで取得しました。日本ではアルバイトをしながら大学に行ける。自分が頑張れば頑張っただけ報われるすばらしい国だと思います。
その後、4年制大学に行きたくなり、9月から通える大学を探して岐阜県にある朝日大学に転入しました。数字が好きだったので、経営学部で学び、レストランでのアルバイトも両立させました。アルバイト先の名古屋への往復の電車の中で、独学で簿記の勉強をして日商簿記検定2級まで取りました。
――その後、結婚して帰国していますね。
金 大学を卒業する前に結婚し中国に帰りました。中国で出産し、2年ちょっとしてから再び来日しました。ただ、大学に戻るのは年齢的にもう厳しい。以前、飛行機の中でたまたま知り合った方が役員を務める日本企業に就職し、3年3カ月勤めました。
その後独立して警察や検察、裁判所といった司法関係の通訳や翻訳、それに中国語の教室などをやっていました。教室では単に中国語を教えるだけではおもしろくないので、中国の現地ニュースを使い中国語を教えることプラス基本情報を伝えるといったことをしていました。また当時は韓流ブームで、私は韓国語も話せるので、韓国ドラマをテーマにした韓国語講座もやっていました。
――その頃、お子さんを育てながら?
金 日本に再来日したのは子どもが1歳を過ぎた頃で、6歳になるまでは日本と中国を行ったり来たりしていました。6歳になって小学校に入るタイミングで子どもは日本に移住しました。
――ARTISTIC&CO.の創業者、故・近藤英樹氏との出会いはどんなことがきっかけだったのですか。