オフィスに戻ってから、私はずっとデスクに座っていた。大事な仕事で失敗したあとだからこそ、せめてやる気だけはあると思われたかった。チームの人たちが一人ひとり帰っていく。私は今回のような機会に備えて、想定される質問のリストを作り直していた。
「他社ドリンクと差別化するポイントは?」
「カロリーが抑えめとのことですが、それはどうやって実現しているんですか?」
「この成分は体にどんな影響があるのでしょうか」
「アーヤちゃんお疲れさま! あんまり無理しないで早く寝てね」
21時頃、ユミさんが耳につけたイヤフォンを片方だけ外して帰りがけに私に言った。
「お疲れさまです、ありがとうございます」答えたあと、
「あの、」今日は本当にすみませんでした、とか、次こそがんばります! などと言おうとしたが、彼女はもう両耳にイヤフォンをつけていて、声が届かなかった。そこで諦めて黙ってしまう自分に、つくづくがっかりした。
23時を過ぎるとほとんど誰もいなくなり、少しずつ電気が消えて、暗くなった。同期の一人が私の席にやってきて隣の椅子に座り、小声で言った。
「ねえ……ユミさんって、社内の一部から嫌われてるらしいよ。まだ若手なのに優秀で、結構目立つ実績出してるから。代わりにプロジェクトのメインを外された人たちから恨まれてるんだって。私の上司の山田さんとか、例のプロジェクトメンバーで今度飲むけど、ユミさんは誘いたくないな~って、うれしそうに言ってた」
「そんな。ユミさんは何も悪いことしてないのに」
「しっ。声が大きいって。私もそう思うんだけど。でもさあ世の中って、良い人がちゃんと大事にされるわけじゃないなあって。ほんとやってらんないよね。そういうわけでさ、うちらも変に目をつけられないように、せいぜい気を付けようねえ」
彼女はそう言うとふうっとため息をして少しほほ笑み、帰っていった。あえて何気ない話し方をしていたけれど、きっとあの子も不安なのだろう。ユミさんが飲み会で悪口を言われているところを想像すると、やりきれない気持ちになった。
山田さんの名前でSNSを検索すると、ローマ字でフルネームのTwitterアカウントが見つかった。フォロー欄を見ると、社内の人間を何人か見つけた。これだ。
「Yさん、ジェルネイルやる暇あって羨ましいですねえw」というツイートがあり、それを開くと、別の上司がコメントをしていた。
「さすがお嬢さまはのんきだよね」
目が痛くなる。どんな理由があれ、こんなふうに人をおとしめて傷つける人たちは絶対に間違っている。そもそも簡単に特定される本名でSNSをこんなふうに使うなんて、それこそのんきにも程がある。何にどう使う計画もないけれど、スクリーンショットを撮って、その瞬間、私がこの中で一番陰湿な奴だという気持ちになった。
さっき彼女が言っていた、「変に目をつけられないように」という言葉が胸に響く。入社式での自己紹介、会社での飲み会、普段の仕事の中で、目立つ人が批判されてしまうような状況を何度も見てきた。「でしゃばっている」「生意気だ」と思われることを避けたい気持ちにより、少しずつ少しずつ、なるべく無難に、おとなしく振る舞うことが習慣になっていったのかもしれない、そう思った。
入社前の説明会で見たユミさんのプレゼンを思い出す。気持ちを込めながら、しっかりと論理的に話す姿に、学生みんなが圧倒された。私も、あんなふうになりたい。諦めたくない気持ちで、大きく深呼吸した。
オフィス内にある自販機まで歩いて、自社のドリンクを一本買って、飲む。そういえば空腹だったと思い出す。考えてみれば昼から、あのアイスしか食べていなかった。
「アーヤさん、最後出るとき、消灯お願いしますね」
他のチームの社員がそう言って出ていったあと、私は一人になった。暗いオフィスに時計の秒針の音だけが響き、なんだか緊張し、胸の辺りにくすぐったさを感じる。スマホが光り、手に取る。彼氏からのLINEだった。
「ごめん! 土曜日、やっぱ行けなくなった。テレビ関係のパーティーに顔出さなきゃいけなくて。行きたくないんだけど、どうしても断れなくて」
広告代理店に転職してからこういうことが増えた。2年も付き合っているから、彼が華やかな集まりには行きたくて仕方がないタイプだということは分かっていた。今回も、自分から無理にお願いして参加させてもらうことになったのだと思う。3回連続でこんなふうに約束をキャンセルされていて、もう1カ月以上会っていない。
「そうなんだ! 大丈夫だよ、楽しんできてね!」
そう返信したあと、「今日、大事な仕事で失敗しちゃって、」と書きかけて、消した。彼は、新しい生活に夢中なのだ。そして、つらいときに彼に頼りたいという気持ち自体をもうほとんど失っていた。そのままなんとなくFacebookを眺めていたら、同じ時期に就活をしていた仲間が結婚したり社内の賞を取ったり、ベンチャー企業でさっそく役員に抜てきされたりしていた。
文/関口 舞 イラスト/くぐはら ひろ