自分の才能のなさを思い知って、夢を手放した

 ある演技のレッスン後、申し訳なさそうにマネージャーから言われました。「どんなに演技の練習をしても努力をしても、絶対に上達しない天性の演技下手な赤ちゃんが100人に1人くらい生まれるのだけれど……、それがあなたです」と。マネージャーといっても、私のすべてを知っているような関係ではなく「たまたまその日、授業を見に来ていた」くらい、あまり面識のない人でした。

 そう言われて、ショックを受けて落ち込んだり、激高してやけになったり……は、しませんでした。なぜなら、自分でもどこかで「才能がないのかもしれない」と、うっすら思っていたから。それまでも演技のレッスンでは、講師の人の反応が今一つだったり、はっきりと「ダメだこりゃ」と言われたりしたこともありました(笑)。

 それでも続けていたのは、演技が好きで俳優になりたかったし、なにより「テレビに出る仕事がしたい」から。けれど、周りに才能のある子が大勢いる中で、「もう引き際なのかもしれないな」と思ったんです。

「その芸能事務所には、50歳以上の人もいました。子育てが一段落ついて、やりたいことを始められたのかもしれません。いくつになっても、自分の夢に挑戦し続けるのは大事だなと思います」
「その芸能事務所には、50歳以上の人もいました。子育てが一段落ついて、やりたいことを始められたのかもしれません。いくつになっても、自分の夢に挑戦し続けるのは大事だなと思います」

 それですっぱりと俳優の道を諦め、事務所も退社。その後、お笑いの養成所(ワタナベコメディスクール)に17歳で入所しました。

 お笑いの道を選んだきっかけの一つは、芸能事務所で体験した「漫才」の授業。同じクラスの人とコンビを組み、即興でネタを考えて発表したのですが、これが思っていた以上にウケたんです。「漫才で人を笑わせるのって、楽しいんだな」と初めて思った瞬間でした。

 俳優の道は向いていなかったけれど、テレビに出る仕事はそれだけじゃない。芸人としてテレビに出よう――。そのときは、そう思っていました。


 後編では、芸人をやめようと考えていた時期があったこと、さらに大好きなお酒にまつわるコミュニケーション術を聞きました。引き続き、【後編】「納言薄幸 『芸人やめようか』執着手放し夢がかなった」もお読みください。

取材・文/尾崎悠子(日経xwoman doors) 写真/稲垣純也 イメージ写真/PIXTA

後編「納言薄幸 『芸人やめようか』執着手放し夢がかなった」では、次のストーリーを展開

■芸人やめようかな 吹っ切れたら自然体になれた
■お酒の場は、相手と仲良くなれる近道
■20代と変わらず30代も楽しく生きたい