アテネ五輪の翌年には日本最高記録を達成

―― 五輪後、多くのアスリートが燃え尽きてバーンアウトすることも多いと聞きますが、翌05年にはベルリンマラソンで日本最高記録を樹立。気持ちを保つことができた理由は?

野口 私の夢は「金メダルを取る」ことではなかったからでしょうね。あの大歓声の感激は何にも代えがたいものだけど、金メダルを取って終わり、ではない。私の夢は、ワコールの入社当時に宣言した「足が壊れるまで走り続ける」こと。オリンピック選手には結果を重視する人も多いと思いますが、それ以上に私は走り続けることが夢でした。オリンピックの後は「次は記録だな」と気持ちを切り替えました。

アテネ五輪で金メダルを獲得後も、バーンアウトせず、果敢にレースに挑んでいった
アテネ五輪で金メダルを獲得後も、バーンアウトせず、果敢にレースに挑んでいった

北京五輪ではレース5日前に無念の欠場

―― 金メダリストになった後もモチベーションを維持した結果、08年の北京五輪でも代表に選出。2大会連続のメダルが期待されましたが、ケガでレース5日前に無念の欠場となりました。

野口 もちろん悔しかったです。どんなに痛くても、何とか無理して出たいという思いで最後まで諦めきれず、直前に辞退することになりました。つらかったけれど、「ケガはすぐに治る」「またすぐに走れるようになる」と気持ちを切り替えることで持ち直しました。ところが、その後、3、4カ月経っても治らなくて。「大丈夫、治る、治る」とずっとポジティブでいたけれど、結局、ほぼ1年間、リハビリのみで走り込みはできませんでした。コーチともぶつかりました。焦りも、走れないもどかしさも、ピークでした。