「彼岸からニキに射殺された私を、タロットガーデンに埋葬してほしい」
――写真家・荒木経惟

9月18日より国立新美術館にて、大規模な「ニキ・ド・サンファル展」が開催されています。本展は、2014年にパリのグラン・パレで開催され、およそ60万人を動員した大回顧展の要素を取り入れ構成されたものです。


カラフルなオブジェから、ニキの反骨精神をうかがい知る~ニキ展を見に行こう!
ニキ・ド・サンファル(本名カトリーヌ・マリー=アニエス・ファル・ド・サンファル、1930-2002)は、戦後を代表するアーティストの1人です。フランス人の父とアメリカ人の母の間に生まれた彼女は、のちに作家となる幼なじみのハリー・マシューズと結婚し、アメリカで暮らしていた1950年の初めに絵を描き始めました。
アメリカとフランス、両方の抽象絵画やネオ・ダダなどに影響を受けながら、次第に独自のスタイルを確立。1961年には最初の代表作「射撃絵画」を発表します。これは、絵具を入れた缶や袋をオブジェとともに石膏によってレリーフに埋め込み、それに向けて銃を放つことで作り上げる作品。創作行為“そのもの”をアートとする、パフィーマンス・アートの先駆例として高い評価を得ることになったのです。

その後ニキは、自らが「女性」であることへの問いを制作のテーマとして掲げるようになります。複数の立体的なオブジェを組み合わせた「アッサンブラージュ」(コラージュの立体版)を用いて、魔女や娼婦、聖母、花嫁など、様々な女性像を制作しました。そこには、女性が社会的に背負わされる様々な役割に対しての「抵抗」が見て取れます。
しかし、64年ごろからその作風は次第に変化していきました。友人のクラリス・リヴァーズが妊娠した姿に着想を得た「ナナ」は、鮮やかな色彩で彩られ、丸みを帯び、アクロバティックなポーズを取るなど、まるで「自由」を謳歌する女性を讃えるような作品でした。

もちろん、幼少時代のトラウマや家族との複雑な関係など、彼女自身が抱える苦しみも制作の大きなモチベーションであり続けます。「反骨精神」を内包しつつ、女性の解放を表現するニキは、現代アーティストとしての地位を築き上げたのです。
自らの「女性像」を表現する一方で、男女の関係に目を向けた作品もニキは多数発表しました。1973年の映画「ダディ」では、幼少期に性的虐待を与えた父への愛憎/葛藤と向き合い、自らを解放しようとします。また、男女の像が背中合わせになった「頭にテレビをのせたカップル」(1978年)では、男女の間のコミュニケーションと、そこに生じる心理的葛藤をユーモアを交えながら表現しました。

こうした作品には、ニキの芸術活動を支えたパートナー、ジャン・ティンゲリーとの関係も色濃く反映されています。60年代後半に発表した版画作品には、ティンゲリーへの思いが言葉で記されていました。また、「恋する鳥」シリーズでは、男性を半人半鳥の怪物として描くなど、神話的なモチーフが加わるようになっていきました。
日本人女性、ヨーコとの出会い

彼女の神話的モチーフは、1980年の夏に出会った日本人女性、Yoko増田静江(以下、ヨーコ)の影響でさらに発展していくことになります。ニキの版画作品「恋人へのラブレター」(1968年)に魅了されたヨーコは、そのわずか4カ月後、自社ビルの中に「スペースニキ」と名付けたギャラリーを設置。その後、アーティストとコレクターの関係を超えた、特別な交流が20年以上にわたって続くことになりました。
そのヨーコとともに京都を訪れたニキは、巨大な仏像に大きな感銘を受け、色ガラスを巧みに用いた「瞑想する仏の姿」を彷彿とさせる作品を作ります。

他にも古代エジプトの女神トエリスや、人間の体に象の頭を持つインドの神様ガネーシャ、さらにはメキシコで見た髑髏を造形化するなど、宗教・精神世界へ傾倒していきました。そうした作品に、しばしば用いられる色ガラスは、ニキがバルセロナを旅行した時に見た、ガウディの建築、とりわけグエル公園からインスピレーションを強く受けたものと言われています。

グエル公園のような彫刻庭園も設立
グエル公園のような、自分だけの宮殿を作りたい。ニキのそんな願望は1974年、旧友マレッラ・カラッチョロとの再会によって現実のものとなりました。

「タロット・ガーデン」と名付けられた彫刻庭園の建設は1979年に開始され、およそ20年後の1998年に一般公開されます。その後も手を加えながら、2002年に亡くなるまでニキはこの「タロット・ガーデン」に情熱を捧げました。

常に反骨精神とユーモアを併せ持ちながら、女性の解放を表現し続けたニキ・ド・サンファル。美しくもグロテスク、それでいながら飛びきりポップな彼女の作品を、是非この機会に堪能してみてはいかがでしょうか。