記念日を祝うよりも、作品と向き合うことを尊重する芸術一家
まず、うちには父の日、母の日みたいなことを祝う習慣がありません。家族で集まって何かするより、それぞれがいい作品を描いたほうがよっぽどうれしい、というのが両親の考えです。普段の食事も母が大鍋で作っておいて、それぞれ食べたいときに食べる。
でも、みんなバラバラに生活しているからといって、家族の仲が悪いわけではないんです。リビングに集まってきたときは、お互いの作品論的なことを語り合ったりして。小学生のころは母親に「宿題やりなさい」なんていうことも言われましたけど、そういうことよりも、みんなが対等に話をする様子を覚えています。
以前、僕の本の企画で父親と対談したことがあって、僕をどう育てたのかを改めて聞いてみたんです。そうしたら「俺は育てていない。絵を描いていただけだ」って言われて。ちょっとショックでしたが、確かに基本は自由だったなあという自覚もあります。
ただ唯一、言葉遣いだけは昔から厳しく言われていました。「むかつく」とか「ふざけんな」とか、ちょっとでも野蛮な言葉を使うと家の外に出されたりして。それはすごく感謝しています。今こうしてラジオなどで話す仕事をしていると、普段の言葉遣いが思わず出ちゃったりしますからね。
5歳の息子に早くもジェントルマンの片りんが…
夫婦で会話していれば、世間話的にちょっと乱暴な言葉が出るときもあります。でも息子が聞いているということは意識するようになりました。
この間、サッカーのワールドカップの試合を見ていたとき、日本チームの動きの悪さに思わず「チッ」とか言っちゃったんですけど、「あ、パパ今舌打ちした!」って息子に突っ込まれました。そういうことはよくないという認識は自然に持ってくれているみたいです。
子どもは親の言葉をまねて大きくなるし、やっぱりよその家族を見ていても、親子って大体似ている。子どもにこうなってもらいたいと思う理想があったとして、自分自身がそうなっていなかったら、子どもが親を超えられるはずがありませんよね。
だから息子が生まれてからは、自分がこうしたいではなく、息子に「こうなってもらいたい」と思う人間でいようと努力している気がします。無意識にですけどね。ああしなさい、こうしなさいと言わなくても、自分がそうなれば息子は見ている。俺の背中を見てくれ。澤穂希ですよ。
この間、ラグフェアのメンバーやその家族と、「串カツ田中」でご飯を食べていたときのこと。その中に3歳の子どもがいたんですが、椅子から降りて狭いところを歩いて来て、うちの息子や僕にじゃれついてきたんですね。その子の後頭部がちょうど隣のテーブルの角に当たってしまいそうで、危ないと思って僕はずっとその子の頭とテーブルの間に手を入れてクッション替わりにしていました。
でも一瞬、ご飯を食べるか何かで僕が手を外したんです。そうしたら、息子が代わりにさっと手を入れたんですよ。で、ずーっとそのままガードしているの。いい子に育ったなあってうれしかったです。
