豊かで住みやすく教育水準も高いから、なかなか変わらない
多様性が進み、特に不登校の問題や発達障害を持つお子さんの課題などが知られるようになるにつれ、従来型の一律の授業の限界を指摘する声が高まっています。さらにこれからは一定数、日本語を母語としない子どもたちも同じ教室内にいる状態が普通になっていきますから、この学年はここまで学ぶという学習指導要領体制が限界に来ているのだろうと僕は思っています。
特に発達障害を持つ子どもや、グレーゾーンの子どもがいる場合、本来コミュニケーション能力を育成する教育は、とても意味があるものです。「跳び箱」の話で出てきましたが(「平田オリザ 多様性生かす経験の多さが生き抜く力に」)、いろんな人がいたほうがグループのパフォーマンスが上がるという、多様性を力にするような授業を展開しやすいからなんですね。
みんなで一緒にひとつの課題に取り組むとしても、従来のように「一律で同じ答え」を出す必要はありませんし、演劇なら、話すのが苦手という子には話さずに場を盛り上げる役を与えることも可能なわけです。
そうすることで、自分の役割を見つけられるようになれば、どの子どもも能力を伸ばしていくことができますよね。現実は、そう簡単にはいかない部分も多々ありますが。
ただ、これだけ社会が大きく変わってきているにもかかわらず、教育の現場ではなかなかその変化についていこうという機運が高まらず、従来型の一律な授業を行っている現状があります。なぜかと言えば、これも繰り返し言ってきたことですが、日本は下降線をたどっていると言いつつも、豊かで住みやすい国ですし、教育水準も高い、教員のレベルも高いため、それぞれみんなの努力によって、どうにか持ってしまうんです。
これはまるでブラック企業にまではならないグレー企業の状態です。みんなが変えたほうがいいとうっすら思いながら、みんな優秀だから耐えられてしまう。
でも、どこかでは変わらなければならないとはいえ、急激に変えるのもあまりよくない。変えるときには30年後、あるいは50年後を見据えて、ゆっくり変えていく必要がある。