中2で世界レベルの選手との実力差を知り、努力の大切さに目覚める
勝つことを意識するようになると、キッズクラスで一番速くウォールを登れるようになりました。その後、小学校6年生での全日本ユース優勝を皮切りに、さまざまな試合で結果を出しました。
当時、私はなぜか本番に強く、ほとんど練習することなく試合に出ても勝てるような状態でした。このため、ますます練習をしなくなっていきました。まだ今ほどクライミングの競技人口が多くなかったことも、練習せずにいい成績を残せた一因かもしれません。

中学生になった頃、父が自宅にプライベートウォールを作ってくれました。それぞれに忙しくなりなかなか揃って施設まで行けなくなったからです。我が家は酪農家で、使っていない牛舎があったので、その場所を利用して父自身の手で作ってくれました。けれど父は練習を強制することは全くなく、相変わらず娘と一緒に楽しめる時間を作りたかったそうです。私や妹も最初は遊びの感覚で登っていましたし、妹の方は中学でテニス部に入ると、クライミングを辞めてしまいました。
その後、私は中学2年生で初めて国際大会に参加します。そこで見た、世界レベルの選手たちのパフォーマンスは、まともな練習をしていなかった自分とはまったく違うレベルでした。このとき初めて、私の中に、きちんと努力して結果を出してみたいという気持ちが芽生えます。そして2005年の世界選手権に出場が決まると、日本代表として恥ずかしい結果を出してはならないと強く感じ、半年ほどかけみっちりとトレーニングを重ねました。その結果、3位となったことで、努力は報われると実感することができ、より高みを目指すようになれたと思います。
何ひとつ強制はせず、とことん寄り添いフォローする父
私が積極的に自主練を始めると、父は仕事の合間を縫って練習に付き合ってくれました。父は子どもの意志を尊重するタイプで、クライミングも進学も、自由に行動させてくれました。その後、私はプロクライマーの道を進むために大学を中退しますが、そのときも「大学はいつでも行ける」と、私の気持ちを優先してくれました。今から10年以上前のことですので、まだクライミングに対する世間の認知度は高くありません。日本人でプロとして活躍している人はほぼいない時期でしたから、親として止めるのも普通だったでしょう。それにもかかわらず背中を押してくれたことに、ずっと感謝しています。
以降は、父が見守るなかで、トレーニング漬けの毎日が始まりました。当時はクライミングのコーチや先輩が少なく、独学で技術を習得していました。できない課題があれば、なぜできないのかを分析し必ずできるようになるまで練習をする。これを、ひたすら繰り返しました。そして、苦手な技があると、父が自宅の壁をその点が克服できる形状に改造してくれました。
その結果、2008年のボルダリングW杯での初優勝を皮切りにさまざまな大会でよい成績を積み重ねることができるようになりました。そして、21年の夏、東京五輪で銅メダルを獲得しました。すでに、「東京五輪が終わったら引退する」と覚悟を決めていましたので、悔いのない最後の舞台となりました。父は「おかげで楽しかった」と(笑)。