『野櫻家の選択』 主な登場人物
やっぱりしゃべりすぎた
「あれ、野櫻さん、資料探しですか?」
突然、声を掛けられて、美紀は思わず両手いっぱいに持っていた本を落としそうになった。
「御前崎くんこそ、どうしてここに?」
声を掛けて来たのは、部下の御前崎だ。ここは会社の近くの大きな書店だ。会社の人間がいても不思議じゃないが、まさか御前崎に会うとは思わなかった。およそ読書に興味なさそうな男なのに。
「俺、人と待ち合わせするとき、いつもここにするんです。喫茶店もあるし、静かだから」
美紀は体を本棚に押し付けて、落ちそうになった本を支えている。打ち合わせの帰りに本屋に寄って、和也の役に立ちそうな本を探していたのである。
「大丈夫ですか?」
御前崎が落ちそうになった本を支え、美紀の体勢が整うのを助けた。
「ええ、まあ、なんとか」
そう言いながら、困ったなと内心美紀は思っていた。持っているのは『起業のために必要な7つの条件』『起業する人へ』『起業マニュアル』といった起業のためのノウハウ本である。タイトルを見て、御前崎が驚いた顔になる。

「すごい、起業の本ばっかり。まさか野櫻さん、起業するつもりじゃないですよね?」
「いやいや、私はしないわ。会社の仕事に満足しているもの」
そう弁解するものの、御前崎は訝し気にこちらを見ている。
「私じゃなくて、夫の方。会社を辞めて起業するって言ってるの。だから、私もちょっとは勉強した方がいいかと思って」
言いたくなかったが、説明しないとあることないこと噂を立てられそうである。
「へー、野櫻さんのだんなさん、大手の住宅会社でしたよね。なのに辞めるっていうんですか?」
「まあね、私も続けてくれた方がいいと思うんだけど、人事から慣れない営業に飛ばされて、おまけに人間関係も悪いらしくて」
就業時間中に私用の本を探していたことが後ろめたくて、美紀はついくどくどしく説明してしまう。
「人事から営業って、なかなかハードですね。気持ちわかりますよ。俺も営業に行けって言われたら、会社辞めるかもしれない」
御前崎に言われて、なぜか美紀はほっとする。御前崎が賛同してくれたからといって、うまくいくとは限らないのだが。
「起業ってどんな仕事をやるんですか? 人事関係だと人材サービス業とか?」
御前崎はへんに勘がいい。そして、詮索好きだ。
「まあ、そんなところね」
やっぱりしゃべりすぎた、と美紀は後悔する。