裁判記録をいくら読んでも見えてこない、当事者たちの内面が…

 感じているのにうまく言葉にできないことを鮮やかに言葉にしてくれるのが宮本輝さんであるとしたら、本人ですら気付いていないような感情をすくい上げ、それに言葉を与えてしまうのが山田詠美さんではないでしょうか。 

 『つみびと』(山田詠美著、中央公論新社)は、2010年の夏、大阪市内のマンションに置き去りにされた幼い弟妹が餓死した実際の事件をモチーフに描かれた小説です。

 タイトルでもある「つみびと」は誰なのか? 

 もちろん実際の裁判で懲役30年の判決を受けた母親であることに間違いないのですが、読後はその確信が揺らぎます。自分に彼女を責められるのか? 人は人を裁けるのだろうか? という疑問が湧き上がってくるんです。

 なぜなら、この小説には、裁判記録をいくら読んでも見えてこない当事者一人ひとりの内面が描かれているから。

「タイトルでもある『つみびと』は誰なのか? 自分に懲役刑となった母親を責められるのか? 人は人を裁けるのだろうか? という疑問が湧き上がってくる」
「タイトルでもある『つみびと』は誰なのか? 自分に懲役刑となった母親を責められるのか? 人は人を裁けるのだろうか? という疑問が湧き上がってくる」

 小説は、シングルマザーの蓮音、その母親の琴音、置き去りにされる子供の1人である桃太、3人の視点で進んでいきます。

 琴音は父や義父からの虐待というトラウマを抱え、幼い蓮音を置き去りにして家を出てしまったこと。蓮音は弟妹を抱え、「がんばるもん、がんばるもん」と唱えながら、誰にも頼ることを知らずに育ったこと。

 やがてシングルマザーとなった蓮音は、ギリギリのところで踏ん張っていたけれど、ある時それがフッと崩れ、幼い子供を死に至らしめてしまう。なぜそんなことをしてしまったのか、そもそも自分がどうしてこんなところに行き着いてしまったのか、彼女はそれを語る言葉を持っていません。

 恐らくずっとそうだったのでしょう。声を上げたこともあるけれど、誰も聞いてくれなかった、頼るなと背を向けられ続けた。孤立した蓮音は、「もう、どうにもなんないんだよ…」と諦め、「いいや、もう」と流されて生きてきた。

 『つみびと』の中では、そんな蓮音の言葉にならない心の叫びが、つぶさに明かされていきます。

 桃太の目線で語られるパートは、その最たるものといえるかもしれません。母が大好きで、母を守ろうとさえし、飢えと渇きの中でも母を慕い続けた桃太。その心の内を語る文章は4歳児の言語能力をはるかに超えたものではあります。でも、もしも桃太が言葉を持っていたら、きっとこんなふうに話しただろう、桃太はこう感じていたはずだ、と思わされるんです。

 語る言葉を持たない人の内面に分け入って、言葉を尽くしてその人の思いや人生を語る。これこそ、裁判はもちろん、ノンフィクションにもできないけれども、小説にだけできることなのではないでしょうか。

「この小説は、シングルマザーの蓮音、その母親の琴音、置き去りにされる子供の1人である桃太、3人の視点で進んでいきます」
「この小説は、シングルマザーの蓮音、その母親の琴音、置き去りにされる子供の1人である桃太、3人の視点で進んでいきます」