授業中の雑談で生徒に野矢さんの著作を紹介すると……

 そんなときに、野矢さんの講演を聞く機会がありました。野矢さんは「他者が見る世界なんてまったくわからないという考え方があるけれど、そんなことはない。完全にわかることはできなくても、他者と共有している世界の見え方も確かに存在している」とおっしゃり、「他者に到達すること」とはそもそもどういうことなのかを解説してくださったんです。

 これを聞いて、当時大学院生で、母校であるこの学校で非常勤講師をしていた私はとても感動してしまいまして。授業中の雑談のような形で、生徒たちにその感動を伝え野矢さんの著作を紹介したんです。そしたら、次の授業のときに1人の生徒が「野矢さんの本、買って読みました」と言いに来てくれた。

 うれしかったですね。生徒に興味を持ってもらえる領域を紹介できたことにも、その領域が哲学であったことにも、教師としての手応えを感じることができました。

「哲学の領域で生徒に興味を持ってもらえたことで、大学院生であった私は教師としての手応えを感じることができました」
「哲学の領域で生徒に興味を持ってもらえたことで、大学院生であった私は教師としての手応えを感じることができました」

 そんな個人的な思い入れがあってセレクトした『語りえぬものを語る』では、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の結びの言葉である「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」を起点に、「語りえぬもの」の姿をあぶりだすための議論が次々と展開されます。哲学書にありがちな難解な文章ではなく、ユーモアを交えた軽やかな文体でとても読みやすいけれど、内容は決して易しくありません。

 これを読んで、「ほうっ」と膝を打つ生徒はまずいないでしょう。私自身、「なるほどね」「あ、なんかわかります」という反応を期待してこの本を持ってきたわけではなく、たぶんさっぱりわからないだろうなと思っています。

 よくわからないけれど、自分たちとはまったく違うこういう世界の見方があるんだな、ということに気づいてもらえればいい。それが、これからの人生でいろいろな出来事に出合ったときの、物ごとの受け止め方や捉え方の素地になるような気がするんです。

 先ほど私は、生徒たちにちょっとだけ背伸びをしてもらいたいと言いました。背伸びをするというのは、すんなり受け入れられるとは限らないものに触れようとすることです。今は、衝突を避け、受け入れがたいものを避けて、心地いいものにだけ囲まれて生きていくことができる時代です。だからこそ、生徒たちには中高生のこの時期に、すんなりいかない感じ、ざらつきのようなものを経験しておいてほしいなと思います。

「読書で自分たちとはまったく違うこういう世界の見方があるんだな、ということに気づいてほしい。これからの人生でいろいろな出来事に出合ったときの、物ごとの受け止め方や捉え方の素地になります」
「読書で自分たちとはまったく違うこういう世界の見方があるんだな、ということに気づいてほしい。これからの人生でいろいろな出来事に出合ったときの、物ごとの受け止め方や捉え方の素地になります」