「歴史や悪をどう捉えるか」の知見を与えてくれる
次にお薦めするのは20世紀を代表する政治哲学者ハンナ・アレントの『責任と判断』 (筑摩書房)。彼女は、第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出してアメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人。自らの体験を通してナチス・ドイツや全体主義体制を分析した世界的な名著を何冊も残しています。
前述した野矢さんの本が「世界の眺め方」を示してくれるものであったとすれば、アレントのこちらは「歴史や悪をどう捉えるか」の知見を与えてくれるものだと言えるでしょう。
アレントはこの本の中で、自分で考える責任を放棄した瞬間に生まれる「凡庸な悪」の姿を明らかにしています。
ナチス・ドイツでホロコーストを指揮する立場にあったアドルフ・アイヒマン。彼は、大罪を犯すような極悪人ではなく、自身の出世という世俗的なことにしか興味のない人物だったといいます。そんな人物がなぜ数百万人もの虐殺を指揮できたのか。アレントが指摘したのは、アイヒマンは思考しようとする意思が欠けており、上層部の命令を忠実に実行しただけで、罪悪感をまったく抱いていなかったということ。自分で考える責任を手放した結果、凡庸な人間が平然と虐殺を行うという恐ろしさ。
さらに恐ろしいのは、「全体主義の政府が発見したことの一つに、巨大な穴を掘って、そこに歓迎できない事実と出来事を放り込んで埋めてしまうという方法があります」という指摘ではないでしょうか。過去はなかったかのように忘れ去るべきものとされてしまいかねないということ。
一方アレントは、過去が私たちにつきまとうのは正しいことだといいます。「この世界を生きようと願う私たちにつきまとうのが過去の機能だ」と。つまり「起きたこと」を現在の私たちに突きつけてくるのが過去であり、過去は決して水に流したりできないということなのですね。
……こちらも難易度が高いです。でも苦しいだろうけど、ちょっと背伸びをしてなんとか読んでほしい。異物に触れるこの息苦しさや辛さが、想像もしなかった化学変化を自分にもたらしてくれるかもしれません。
自分と異なる価値観で生きる他者を理解する
とっつきにくい分野の難しい本をあえてお薦めした理由を最後に説明したいと思います。
生徒たちは高校を卒業すれば、それぞれ専門分野へと進んでいくことになります。だからこそ、ここで哲学や論理学に触れてほしいのです。哲学や論理学は、多くの生徒たちにとって、もう一生触れる機会がないかもしれない学問領域だから。こういう世界があるということに気づかずに生きていくのは、やはりもったいないような気がします。
どのような道に進むのであれ、大学生や社会人になればまったく価値観の異なる人とのかかわりは避けられませんよね。自分の好きなものしか見えない世界の中で生きているわけには生きません。仲間うちで閉じていたら、どうしたって見えてこないものがあります。
哲学や論理学は、自分と異なる価値観で生きる他者を理解するときの姿勢や構えを養ってくれるものであると私は考えています。
だから、ちょっとだけ背伸びした読書をしてほしい! これが国語の教師としての私の願いです。
取材・文/平林理恵 写真/稲垣純也