40代からの趣味で「世界」を広げる
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したいことをやりきった満足感で、仕事にまい進する覚悟ができた
40代になって新しい趣味の扉を開き、世界をぐんぐんと広げている共働き親の方々のケースを紹介する本特集。6本目にご登場いただくのは、歌という趣味を極め、子育てと本業を続けながら、歌手になる夢もかなえた秋野櫻子さん。共働きの夫と小学2年生の男の子を育てるママで、フリーのキャリアカウンセラーとして働く一方、ポップスやジャズのシンガーとしての顔も持っています。
秋野さんは民間企業を皮切りに、22歳で転職した厚生労働省では大臣秘書を経験。30代で人材派遣会社の立ち上げに関わった後、女性支援のNPO団体を立ち上げたというパワフルな経歴の持ち主です。
歌手になったのは40歳を過ぎてから。42歳で出産後、20代で諦めた歌手を再び目指そうと決意して、レッスンやライブ活動を始めたと言います。歌手の夢をかなえようと決意したのは、何と出産当日。その理由は何だったのでしょうか。
育児、仕事をしながら歌の世界を楽しみつくした40代を過ごした秋野さん。今、50代の入り口に立ち、仕事に対して新たな意欲が湧き起こっています。「歌手活動への満足感や、親の介護を金銭面でサポートするための経済的な必要性、職場からの期待感もあり、再び仕事にまい進しようと自然に意識の切り替えができています」
ママだから、働いているからと我慢したり諦めたりしなかった秋野さんのパワフルな40代の過ごし方は、一歩踏み出すことをためらっているママたちの背中を押してくれるはずです。

歌手を目指し、働きながら20代まで音楽活動
「幼稚園ではピンク・レディー。小学生では松田聖子ちゃん。歌がうまいアイドルに憧れて、遠足のバスの中ではマイクを離さずにカラオケを歌っていました。自分もいつかステージで歌うんだと信じていました」と幼少時代を振り返る秋野さん。
高校生になっても、バンドを組んで、PRINCESS PRINCESSの楽曲を演奏するなど、音楽漬けの青春を謳歌していたそう。週末は当時住んでいた静岡から高速バスで東京へ行き、ボイストレーニングを受けて歌の技術を磨いていました。地元の短大へ進学後も歌手への夢を持ち続け、アルバイト代はレッスン代や交通費に充てたと言います。
歌手への熱い夢を持つ一方、「なかなかオーディションを受けられなかった」とも。「自己肯定感が低くて、受けるのが怖かったのです。ひたすら練習ばかりしていました。やっと勇気を出して受けても、落ちてしまうと『もうダメだ』と、次のチャレンジにつなげることができませんでした」
デビューのきっかけをつかむことができないまま、短大卒業後は民間企業へ。並行して歌の活動を行っていましたが、仕事が多忙で時間をつくれず、「公務員なら定時で上がれるのでは」という動機から、国家公務員試験を受けて厚生労働省へ入省します。
大臣秘書に抜てきされて霞ヶ関勤務となってからは、毎日「定時で上がる」とはいかず、早朝や深夜に仕事をすることもありましたが、音楽活動は継続。当時大人気だったマライア・キャリーやホイットニー・ヒューストンなどを歌い、洋楽にも幅も広げていきます。20代後半は、同世代の会社員とバンドを組み、渋谷や下北沢のライブハウスで演奏活動も行っていました。
「なかなかうだつが上がらなくて、3年ほどで解散。私はまだ諦めず、『このままではダメだ。退路を断って音楽に専念しよう』と29歳のときに公務員を辞めました」
アルバイトをしながらレコード会社へデモテープを送ったり、オーディションを受けたりして、歌手への夢を追い続けます。最終審査に残ったこともありましたが、あと一歩が届きませんでした。
その頃知り合った会社員の男性と30歳で1度目の結婚をします。「彼も趣味でドラムをしていて、音楽の話が合ったのがきっかけでした。結婚をきっかけに音楽への夢は封印。『30代は仕事に生きる』と決意しました」