女性リーダーに学ぶ 新しい子育て
-
1キャシー松井 親の理想と違っても子の決断尊重すべき訳
-
2高橋祥子 育児を根性論で乗り越えない 生命科学の視点
-
3平川理恵 娘は12歳で留学決意 自立早めたものは
-
4中村亜由子 スキルや勉強より「自分で選択できる子」に
-
5外科医・山内英子 一つでもしっかりと、わが子のために←今回はココ
9歳の息子が書いた作文「僕の変わったお母さん」
「母の日の作文の宿題、何も書くことないな……」
これは、聖路加国際病院副院長、ブレストセンター長兼乳腺外科部長の山内英子さんの息子さんが、9歳のときにぽつりとつぶやいた一言です。
「当時の私は39歳。米国の外科専門医資格を取得するため、20代の研修医に交ざって、ハワイ大学で外科の研修医をしていました。息子がこうつぶやいたの は、当直あけで40時間ぶりに自宅に帰り、夫と共に、週末に通っていた日本人学校に息子を迎えに行った帰り道でした。他の子のママのようにできていない自覚はありましたが、ショックでしたね。私は涙があふれてきて、自宅のガレージに到着したあと、車から飛び出て、当時住んでいた自宅近くのビーチへと走りました。驚いた息子が私の後を追いかけてきて、『マミー、ごめん』と、わけも分からず謝っていました」
1カ月後、息子さんのその作文が、ハワイのラジオ局の作文コンクールに入賞して、放送されることに。タイトルは、「僕の変わったお母さん」というものでした。
僕のお母さんは、掃除もしないし、ご飯も作らないし、宿題もみてくれません。家にかえってくると寝てばかり。でも、それには理由があります。けがをした人、病気の人、困っている人を助けているからです。そんなお母さんが大好きです。僕もお母さんのような外科医になりたいと思います。
山内さんは、聖路加国際病院初の女性外科研修医です。研修医のリーダーである「チーフレジデント」に抜てきされた直後に妊娠が分かり、せっかく得た役職を返上すると、出産後はいったんメスを置き、内科医の夫と共に渡米。たまたま、世界的乳がん診療の第一人者から声が掛かって、乳がん診療を手伝うことになり、その後は、米国で医師免許を取得し研修を積みます。2009年に帰国後は、聖路加国際病院外科医長を経て、2010年に聖路加国際病院ブレストセンター長兼乳腺外科部長となり、日本の乳がん治療を引けん引する医師の一人として活躍中です。
夫婦そろって忙しい米国での研修医時代に、子育てのピークを迎えていた山内さん。子どもと一緒に過ごす時間も短く、教育にも十分に手をかけてあげることができませんでした。そればかりか、自分たちだけでは子育ても生活も回らないため、祖父母をはじめ、知人や現地の人たちにも、住み込みで手伝いにきてもらっていたといいます。
それでも働き続けたのは、それらの感謝をバネにして頑張ってきたから。そして、「人にはそれぞれ与えられたたまもの(ギフト)があり、『自分にしかできないことを、社会にどうお返ししていくかが大切』」という信念があったためです。
山内家に滞在した人たちの中には、病気や夫のDVなどの問題を抱え、小さな子ども連れの人たちもいました。そうした子どもたちとの触れ合いを通して、「困っている子どもを助けたい」という信念を抱いた息子さんは、帰国後、小児科医になるか教師になるかで迷いました。「病院にくる子はすでに大人に見守られている。それよりも、誰にも気づかれずに自宅で虐待されているような子にリーチアウトしたい」と、東京大学の教育学部で学び、小学校の教員になったといいます。
「親とはこうあるべき」という考えにとらわれず、等身大の親の生き方を子どもと共有してきた山内さんの子育てには、確かな軸があります。次のページから詳しく聞きました。
Q チーフに抜てきされた直後に妊娠し、チーフの肩書を返上することに。にもかかわらず、キャリアを断念したという挫折感を持たず、育休中もめいっぱい楽しめた理由とは?
Q どれほど忙しくても仕事に生きがいと喜びを感じていた山内さんが、「外科医を辞めたい」と考えたきっかけと、そのときにかけられた息子さんからの言葉とは?
Q さまざまな人が住み込みで子育てや家事を手伝ってくれる中、「みんなに迷惑をかけて申し訳ない」と卑屈にならず、その状況をバネにできた理由とは?
Q 親子で過ごす時間がわずかの中、山内さんが優先してきた「一つのもの」とは?
Q 中学まで米国育ちの息子さんが、「敬語に苦手意識」を持たず、自分の進むべき道を見つけられた理由とは?
Q 多くの乳がん患者さんを見てきて感じた、「人生はレールの旅ではなく、○○の旅」の○○とは?
