子育てや教育に関する講演を求められた時、私は自分の過去を話す。
生まれて10カ月で母親が、3歳上の姉を連れて出ていったこと。写真でしか、母親の顔を知らない。それも、一度見たきりで名前もうろ覚えだ。24歳で私を引き取ってくれた継母のこと。子どもたちにも、必要であれば話す。こちらが自己開示することで、自分の辛さを吐き出してくれることがあるからだ。
小学校3年生の春まで、兵庫県宝塚市の庭付き一軒家で私たち4人家族は穏やかに暮らしていた。私は当時、継母が本当の母親だと信じて疑っていなかった。少し厳しいとは感じていたが、美しく、料理上手で社交的な継母は、自慢だった。小2の時、血がつながってないことを知らされた。驚きはしたけれども、日常は今まで通り穏やかに流れていった。
近づきたい、でも、近づけない
「明日、引っ越すから。友だちに言っちゃダメよ」
急に言われた小3のその日から、私たち家族の環境は大きく変わった。父親が経営していた会社が傾き、借金取りから逃れる必要があったのだ。しばらく山奥の旅館に滞在した後、知り合いの一人もいない三重県伊勢市に引っ越した。
自分が子どもを持ち、わかったことはたくさんある。当時の継母も、色んなものに追い詰められていたのだろうと思う。今は孫に甘い、大切な「おばあちゃん」だ
新興住宅地にあった一軒家から、二間しかないアパートへ。子どもながらに家計の苦しさはわかった。お金にまつわる夫婦ゲンカが、狭い部屋で響きわたる。寝たふりをするのが辛い。別れる、別れないの話になると、必ず継母は言った。「この子はいらない、妹だけ連れて行く」。あの、優しかった「ママ」の口から。
そして、何かにつけ「アンタはとろい、鈍い」と罵り、失敗すれば殴った。その怒りスイッチはどこにあるのか、日替わりでわからない。昨日は洗濯物を畳んでほめられたかと思えば、今日は畳み方が悪いといって頭をはたかれる。
私は継母に物をねだったり、無邪気に甘えたりできない子どもになっていた。それがまたかわいくないと、遠ざけられる。高校生活で自尊心を取りもどすまで、私はただただ途方に暮れて、身を縮めて日々を送っていた。
愛されたくて、近づきたくて。でもその方法がわからなかった。
高校入学の時、好きでもない被服部に入った。継母の趣味は洋裁だった。洋裁に取り組むことで、仲良くなれるかもしれないと思ったのだ。何でも俊敏にできる継母は、ミシンをろくに扱えない私にイライラし、結局は叱られる原因を増やしただけだった。
今思えば、彼女の冷たい言葉も、平手打ちも、軽いものだったのかもしれない。大人になってから話していると、温度差に驚くことがあった。幼かった私には、重く、苦しく、記憶にこびりついていても。
塾や予備校で勤めていたころ、「親を憎んでいる思春期の子ども」にたくさん会った。腹が立つ、うざい、嫌いなのにその庇護(ひご)の下にいなければならない、もどかしさ。当時の私を見るようだ。大学進学で親元を離れ、ようやく距離を置いて継母を見ることができるようになった。
今は、こうして書くことや話すことも、了解済みだ。
「子持ちと結婚してやっていけるのかと、他人の目がプレッシャーだった。ちゃんと育てなくちゃと、厳しくし過ぎた」…今の私は、継母の焦りがわかる。
「地縁のない子育て」のしんどさ
24歳になった時、私はまだ社会に出たばかりで仕事に夢中だった。自分が産んでもいない子どもを引き取り、見よう見まねで育ててくれた24歳の若い継母の決断を思い、申し訳なく思った。