お兄さんとは協力して両親の帰りを待った。芥川賞受賞作『九年前の祈り』は、昨年他界したお兄さんの死を意識して書いたものだという
忙しく働く母親を喜ばせたい幼心からお手伝い
日経DUAL(以下、DUAL) 子どものころ、建設業で働いていたお父さんだけでなく、お母さんもフルタイムで働かれていたそうですね。
小野正嗣さん(以下、小野) おふくろ――「おかあ」と普段は呼んでいますが――は、とにかく働き者でしたね。僕が子どものころは、主に養殖真珠の作業場で核入れ職人として働いていたんですが、大きくなってからは、それ以外にも化粧品の販売、父や兄と一緒に出稼ぎに行った建設作業の宿舎での食事作り、そしてここ15年はヘルパーをしています。最近は、これは無償のものですが、地区の民生・児童委員の仕事をしています。
こうした昼間の仕事に加えて、冬の夜にうなぎの稚魚漁に出て、卸業者に売ったりしていた時期もありました。そういうときには、仕事から戻って家族と夕飯を食べて後片付けをしたあと、防寒着を着込み、網とカーバイトランプを持って、寒い中、出かけて行っていました。
今から考えてみても、本当によく働いていましたよね。兄も僕もそんな働くおふくろの姿を見ながら育ったので、母親とは働くものだと思っていました。
DUAL 小野さんは、家のお手伝いはよくされましたか?
小野 兄も僕もそれなりに手伝っていたとは思います。
忙しく働きながらも朝食や夕食などはきっちりと用意し、おやじと自分の弁当、それから僕の田舎の小中学校には給食が無かったので、兄と僕の弁当を作るおふくろの姿を見ていると、えらいなあ、大変だなあって思いますよね。おやじも肉体労働で疲れているのは分かりますが、仕事を終えて帰ってきたら家事は一切しない。けれど、おふくろはフルタイムで働きながら、炊事、洗濯、掃除のすべてをしていたわけですから。少しでも母に協力したいというか、楽をさせてやりたいなと。
兄が洗濯物を入れて、僕が畳んだり、お風呂を交替で洗ったり。土曜日の昼間もきちんと用意してくれていましたが、食べ盛りですから、それでもおなかがすくとインタスタントラーメンを作って食べたり……。
「やってくれたら助かる」と言われたくらいで、頼まれたわけではありませんが、手伝うとおふくろが喜んでくれるからうれしくなって、いつの間にか家のことを手伝うのが習慣になりました。