骨太な精神力を培った、子ども時代の原風景とは
ジー・エー・ファクトリー株式会社代表取締役の尾崎美都夫さん
阪部 この連載は毎回「グローバル」をテーマにしています。そもそも「グローバル」を志したときに、いきなり「ケニアへ行ってみよう」とは普通はなかなか考えないものです。さらに言えば、尾崎さんには「ケニアに行こうか、どうしようか」などという、凡人にありがちな逡巡や葛藤がなく、スパッと決めていらっしゃいました。
こういう決断ができるということは、恐らく尾崎さん自身が「自分は何者であるか」というアイデンティティーを若いころからしっかりお持ちだった証しではないかと受け止めたのですが……。果たしてどんな教育を受けたら、尾崎さんのように「骨太」な精神が養われるのか、とても興味があります。ご両親との関係など、尾崎さんの子ども時代の話をお聞かせください。
尾崎さん(以下、敬称略) 私には兄と妹がいます。私達三人兄妹は子どものころ、親からこんなことを言われて育ちました。
「お父さんもお母さんも、おまえ達に勉強を教えてやれるのは小学校までだぞ」
私の父も母も中卒です。「小学校を卒業したら自分で勉強するしかないぞ。勉強しなくて困るのはおまえ達であって、お父さんもお母さんも困らないから」と。
八王子の山村で祖父母と共に暮らし、父は林業を営み、祖父は炭焼き職人でした。自給自足に近い貧しい生活でしたね。父は山主さんから依頼を受けて植林をしたり、木々の手入れをしたり、伐採をしたりしていましたが、そこは常に事故やけがと隣り合わせの現場でした。
例えば架線といって山にワイヤーを張り、ロープウエーのような設備を仮設して、切った木を麓の道のある場所まで降ろさなければなりません。ある日、その作業中に滑車が外れてしまい、その滑車が飛んできて額に直撃し、親父の額がパックリ割れてしまったことがありました。
ヘルメットをかぶっていたので一命は取り留めましたが、打ち所が悪ければ即死でもおかしくなかった。また、木を切るチェーンソーでうっかり足を切ってしまったり、振り上げたおので太い血管を切って、血をボタボタ流しながらバイクで帰宅したりする親父の姿を見て育ちました。「勉強しろ」と言われたことはありませんでしたが、厳しい父親でしたね。
阪部 それは家族の営みの中での住人としての役割を果たせ、という点で厳しかったということですか?
尾崎 そうですね。私達子どもも、風呂を沸かしたり、まきを割ったり、雨戸を閉めてしっかり戸締まりをする、とか。
設計士の道を選んだのは、茅ぶき屋根の家に住んでいたコンプレックスから
阪部 尾崎さんが「設計士」という職業を選ばれた背景には、お父様と同じ「木」に関わる仕事だったから、というのもあるのでしょうか?
尾崎 恐らくコンプレックスでしょうね。当時のわが家は茅ぶき屋根の家でした。今では古民家などと言われて、貴重品扱いされていますが……。「いい家を造りたいな」と思うようになったのは高校生のころでしょうか。運送屋のアルバイトで電気製品を市内の住宅街へ搬入に行っていたんです。新しい家に冷蔵庫や洗濯機を運び入れながら「すてきだな、こんな住まい方があるのか」と思ったりして。わが家とのギャップを見せつけられたことがきっかけだったと思います。