出生後2週間を過ぎて付けられた名前

 すべての子どもは、戸籍法により出生後2週間内に名前をつけて、出生届を役所に届け出なければならない。届けが受けつけられて初めて、その子がこの世に存在することになるのである。しかし、その子は、戸籍法で決められていた期限を過ぎても、名前をつけてもらえなかった

 早く出生届を出すように、と病院事務員が家族に連絡を取ったところ、父親はこう言ったとのことだった。

 「出生届を出すと、戸籍に残るから、困る。このまま死なせて、生まれなかったことにはできないのか」

 事務員はあきれながらも、「たとえ仮に死産だったとしても、名前はつけなければいけないから、すぐに名前をつけて出生届を出すように」と説得した。なんとか、この説得には応じてくれた。

 つけられた名前は「恵未」だった。えみ。「恵み(めぐみ)」が「未だ」ない、という意味か。いや、それではあまりに彼女がかわいそうだ。これは、「未来に恵まれる」という意味に取りたい。

 恵未ちゃんがやってきて2ヵ月が経った。心臓の負担がどんどん増えてきていた。彼女の心臓は、点滴に入っているさまざまな種類の薬剤によって、かろうじて生かされていた。相変わらず父親は事務的な用事でしか病院に来ず、我が子の顔をちらっと見て帰るだけだった。

 私は、病院に母親が来ないことを不思議に思っていた。父親と違って、母親というものは、赤ちゃんをおなかの中に10ヵ月間宿しているから、父親とはまた別の感情を我が子に抱いているはずである。その母親が、一度も面会に来ない。ひょっとしたら、親族に、会いに行かないように言い含められているのかもしれない、と勝手に想像を巡らせていた。

深夜「点滴を」の呼び出し

 あるとき、私が病院当直をしていた夜のこと。当直室で寝ていたら、病棟からの内線電話で起こされた。

 「先生、恵未ちゃんの点滴が漏れたから、入れ直してください」

 その日の私は、深夜2時過ぎに1人の救急患者を入院させて、ひととおりの処置をして入院指示書を書き終えたのが午前4時頃。入院患者を回診する6時まで、2時間くらい眠ることができるなあ、と思って当直室のベッドにもぐりこんで10分も経っていなかった。

 「はい、すぐ行きます」

 できるだけ元気な声に聞こえるように返事をして、急いで身支度をしながら、私はいろいろなことを考えていた。

 恵未ちゃんは、すべての医局員に、「自分が当直のときに、点滴が漏れてほしくない」と思われている患者だった。彼女の点滴の入りにくさは有名で、ベテランの医師でもなかなか成功せず、2時間かかったとか3時間かかったとかはざらであった。

 病棟に行くと、看護師が「お気の毒に」という顔をして、私を迎えてくれた。通常、医師が点滴を入れるまでは看護師がそばについて、必要な介助をしてくれるものだが、その間、看護師は、必要な業務をストップさせられることになる。しかし、恵未ちゃんの場合、いつ点滴が成功するかわからない。ただでさえ勤務者が少なくて忙しい深夜の時間帯に、私ひとりの点滴のために看護師の仕事の手を止めさせるのは忍びない。そのため私は看護師に、介助が必要になったら大声で呼ぶから、そばについていなくてよい、と言って、ひとりで点滴に臨んだ。