彼女の苦痛をできるだけ最小限にすることよりも……
長い闘いになりそうな予感はあった。もう仮眠をとることはあきらめた。それどころか、6時の定時の回診に間に合うだろうか。7時から始まる朝のカンファレンスで発表するための、救急入院させた患者のプレゼンテーション用資料をつくる時間もあるかどうか。
恵未ちゃんの細い腕に静脈を浮き上がらせるための駆血帯を巻いて、浮き出るはずの血管を探した。血管がまったく見当たらない。血管があるべき箇所を指でさぐっても、餅を押しているような感覚しかない。指で押したときの感触がわずかに異なる部位を見つけ、たぶんこれが血管かな、これであってほしいと祈りながら、1本目の点滴の針を突き刺した。血液の逆流はまったくない。くそ。これではなかった。
反対側の腕に駆血帯を巻いて、同じようにする。長い時間をかけて、血管らしきものを探し出し、2本目の針を刺す。これも失敗。ちらと壁にかかった時計を見る。すでに30分以上経っている。
次に最適な場所を探そうと、彼女の手足をいろいろ探したが、血管らしきものはまったく見当たらない。今まで多くの医師が試みて、失敗に終わった多数の針跡だけが浮かんでいた。
私は深いため息をついた。そして、こう思った。
恵未ちゃんがじっとしてくれている赤ちゃんでよかった。泣いたり暴れたりする元気な赤ちゃんだったら、看護師に体を押さえてもらわなければならず、そうなると、その間、看護師は自分の業務を中断して、点滴介助しなければならない。看護師の苛立ちの視線とも闘いながら、点滴を入れなければならない。そのような精神的重圧を感じずにできるだけでも、まだよかった。
そう思った次の瞬間、私は自分の考えに衝撃を受けた。
今、私は、彼女をうとましい存在と思っていなかったか?
彼女の苦痛をできるだけ最小限にすること。そのことよりも、看護師からの苛立ちの視線を浴びないようにすることを自分の心の中で1ミリでも優先させなかったと自信を持って言えるか?
私は、病気の子どもたちを救いたいという気持ちで小児科医を目指したはずだ。その気持ちに偽りはない。そして、不幸な境遇の恵未ちゃんに、人一倍心を痛めていたつもりだった。それなのに、今、自分は、彼女を思いやる気持ちを失っていた。
今、何か大きな存在が、私を試そうとしている。私の魂を試そうとしている。「お前は、子どもたちを救いたいと言いながら、実際には、お前が最も軽蔑していたはずの、称賛を得たいだけの医者になろうとしているのではないか?」
いや、違う!と大声で叫びたかった。しかし同時に、自分に対する怒りと情けなさで、ベッドの柵に思い切り自分の額をぶつけた。
彼女が刺された針の数だけ、額を打ちつけたかった
3回目の点滴は、成功した。今までにないくらい最高に神経を研ぎ澄まして血管を探したら、左の足先に、わずかな血管の隆起を見つけたのだった。血管を突き破らないように慎重に針を進め、血液の逆流を確かめた。看護師を呼ばずに、ひとりで針を固定し、点滴をつないだ。
部屋を出るとき、病棟を巡回していた看護師が私を見つけて、言った。
「あら先生、もう終わったんですか? 早かったですね。呼んでくれたら、お手伝いしたのに。あれ、先生、おでこから血が出てますよ! どうしたんですか!」
入れ替わり立ち替わり、多くの者が毎日のように採血や点滴のために恵未ちゃんに針を突き立てる。
恵未ちゃんはなぜ自分がそのような目にあうかもわからず、黙ったままじっと痛みに耐えている。そして、彼女に針を刺す側の我々は、彼女が決して助からないことを知っているのだ。
父にも母にも一度も抱かれることなく、ベッドで眠る恵未ちゃん。彼女が生まれてきた意味は何なのか? 痛い思いをするためだけに生まれてきた存在なのか?
私はできることなら、恵未ちゃんが刺された針の数だけ、額を打ちつけたかった。そして、彼女の残りわずかな命が、温かい想いに包まれて、生まれてきてよかったと思える記憶をひとかけらでもよいから抱いてほしいと祈った。