母親は驚くほど幼げに見えた。出生直後は直ちに保育器に入れられて救急搬送されたから、我が子をちゃんと見るのは、おそらく初めてのはずだ。しかし初めて向き合う我が子は、もう呼吸をしていない。見る目が、虚ろで、無表情だった。

 母が看護師にうながされ、恵未ちゃんを両手ですくい上げた。

 何か無機質なものを抱えるような手つき。微動だにしない母親。

 私は、ここで母親がたった一粒でも涙を流してくれたら、恵未ちゃんの魂は少しは癒やされるのではないか、と思った。しかし、それは無駄な願いだった。せめて、恵未ちゃんの名前を呼んでくれれば……。

 私はたまりかねて、母親に「お母さん、恵未ちゃんの名前を呼んであげてください」と言おうとして、前に進み出た。しかし、私が声をかけるよりも早く、母は恵未ちゃんをベッドに戻し、離れていった。私は声をかけるタイミングを失ってしまった。

幸せの景色を眺めながら

 その日の病院の朝の外来は、いつものように小さな子どもたちとお母さんたちでごった返していた。母親に抱かれて、安心しきった顔で眠る赤ちゃん。母親に絵本を読んでもらって楽しげに微笑む女の子。不安げに椅子に座って緊張している我が子を安心させようと、笑顔で話しかける母親。一つひとつが幸せの景色である。その景色を眺めながら、私の思いは4ヵ月でこの世を去らなければならなかった子の上をさまよっていた。

 生きている間に一度も親に抱かれることのなかった恵未ちゃん。君の目には、この世はどのように映っていただろうか。この世の醜いものだけを見せられて、あの世に旅立っていったのだろうか。

 恵未ちゃん─。

 私は声に出して彼女の名前をつぶやく。そして、彼女がこの世に生きていた証しを少しでも残してあげたいと、その名前をいつまでも記憶する。

緒方高司
1960年大阪生まれ。1982年東京大学工学部卒業。1984年同大学院工学系研究科土木工学専門課程を中退し、同年和歌山県立医科大学入学。卒業後、同大学小児科学教室入局。有田市民病院、和歌山県立医科大学付属病院小児科助手等を経て、1996年和歌山県南紀福祉センター(重症心身障害児施設)に着任。同附属病院小児科医長を務める。2001年大阪府内にて医院を開業、現在に至る。

『君がここにいるということ』
緒方高司著/草思社

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(イメージ写真/鈴木愛子)