どちらの意見にも肯くところ、魅力的なところ、そうでもないところがいくつもあった。

「学歴」や「いい会社」の良さを実感なしでは伝えられない

 今回、痛感したのは、子どもというのは結局、親の価値観のなかでしか最初の一歩を踏み出せないんだな、ということだった。つまり、やっぱりわたしには、偏差値教育&学歴教育、ひらたくいえば「いい学校、いい会社」の良さが、どうしてもわからないのだ。いや、頭ではみんなの言うことはよく理解できる。でも、実感ができない。もちろんわたしがその良さを理解できずとも社会はその良さを中心に回っているのだから、子どもにはその良さにかかわる可能性を与えるのが親の仕事なのかもしれないとも思う。でも、悲しいかな、実感のないことについて、その大切さ、重要さを子どもに伝えるのはやっぱり無理な話なのだ。

 学歴がないことで辛いめにあった過去があり、「わたしに学歴があったなら……!」と悔しく思った経験があるなら、「こんな思いをしないように、おまえだけは」という感じで、可能だったかもしれない。でも、わたしにはそれがない。幸か不幸か、学歴がなくて困ったことが一度もないのだ(ここが呑気なのだと指摘されるのもわかります)。だから「勉強だけは、何がなんでも、一生懸命しなさい」と言える、なんというか根拠というか理念がすごく弱いのだ。勉強が好きだったら、それはもちろん応援するけど……という程度にしか思えないし、これはどうしても、そうなんですよね。あるとしたら英語だけれど、これも必須ではない。『川上未映子 わたしはいったい何を生んだんだろう』でも書いたけれど、動機としては必要にかられてやっているというのが実際のところだったりするしなあ。

 だから唯一わたしが「これはいいよ、これだけはしっかりやりな」と実感しつつ子どもに勧められるのは何か……と考えたのだけれど、これがものすごく頼りない。本を読んだほうがいいとは思うけれど、家に本はあるんだから読むんなら読むだろうし、本を読む楽しさは教えられるものではない。なので、教育としては、色々なことをうすーく広—くやらせてみて、興味のあるものに一本化してゆく……という、何を言ったことにも決めたことにもならない、ものすごくベタでゆるーい方針をとることになってしまうのだ。しかし今のわたしには、それ以外のナイスな方法が思いつかない。