子育てにかんする問題は「喉元過ぎれば」になってしまう

 その理由として、子育てというのはやはり人生におけるいっときの問題としてあってしまうので、問題意識と熱意と実績とが社会的に持続されにくい、という側面があることを挙げてらした。いわゆる「喉元過ぎれば」になってしまうのだと。たしかに……大変だった数年をやりすごしたあとは、また新たな問題が待ち受けてはいるんだろうけれど、しかし当事者であったあのしんどい季節のあれこれは、やはり過去のものになって、切実さは薄まってしまう。そしてまた、右も左もわからない子育ての初心者たちがやってきて、おなじ問題に直面して戸惑いとともに途方に暮れる。そこには常にある種の「やりなおし感」が満ちており、もちろん全体として前進しているのだろうけれど、その進みは遅くなってしまうのだ。

 それに比べて、たとえば身体が不自由な人たちをめぐる環境改善は、それが生涯を通じての問題である場合が多いので、問題意識の強さも、当事者的にも社会的にも認知されつづけて持続される傾向にある(もちろん、まだ十分とは言えないけれど)。その指摘を読んだときに、出産と子育てを経験した自分にもし何らかの責任があるとしたら、それはやっぱり、できるだけ忘れないでいることなのかも知れないな、と感じ入ったのだった。

 とはいえ、子が少し大きくなって手が離れたと思ったら怒濤の思春期対応、そして子が完全に自立するかしないかの頃にはきっと、介護問題がやってくる。ひとつの嵐を抜けたらつねにつぎの嵐が待っていて、過去を振り返ったり慮ったりする余裕なんかどこにあるねん状態なのは、それはそのとおりなんだけれど、でも、当時の具体的なあれこれ──どんな言葉をかけられたときに涙がでるくらい安心したか、また追い詰められたか、些細なことでもどんなことが助けになり、またどんなことで誰かに喜んでもらえたか、みたいなことを覚えていることって、やっぱり他人とのかかわりあいのなかで、自然ににじみでるような気もするんですよね。自分が乗り切れたから、もう終わったことだからその問題が世界や社会からなくなるわけでは決してない。かつてしんどかった自分は、誰かの助けが心から必要だった自分は、今この瞬間にも、そしてこれからさきのどの時期にも、いつだって存在しているのだ。