最愛の子を失って残った感情は、悲しみ以上の出会えた幸せ

 優大くんが8歳のある日。余分な髄液を脳から腹部に流すためのシャントチューブが詰まってしまい、脳圧が上がってしまう「シャント機能不全」を起こします。すぐに手術を施すも体力が戻らず、人工呼吸器を着けて特別室へ。あと数時間の命と宣告も受け、誰もがもう最期だと覚悟を決めます。

 「僕は、優大を大事に育てていれば長生きさせてあげられると思っていました。『プ、プ、プ』という機械の音が止まると、優大は逝ってしまう。呼吸も浅くなり、『今日が最期かもしれない、本当に死んでしまう』と絶望した」と広数さんは語ります。

 家族が見守る中、優大くんは小さな呼吸のまま特別室での数日を過ごし、誕生日を迎えます。復活を諦めかけたころ、再び奇跡が。数値が正常に戻ったのです。

 「勝ち負けの価値観で生きてきた僕にとって、理解できない一連の経験。優大の症状が落ち着いた後、ショックで僕は40度以上の高熱を出し5日寝込んで、5kg体重が落ちました。全身で命を表現して残そうとするわが子。子どもが亡くなるとき、自分に何ができるのか。息子に恥じない生き方をしたい。今思うと、見送り方を考える予行練習のようでした。『手を握ることしかできない。でも、ただそばにいればいい』ということを優大は教えてくれました」

 3カ月の入院を経て無事退院。その後の2年間は、大好きな学校にも戻り、外出や旅行へ行くこともできました。

奇跡の生還を遂げて、自宅で撮った記念写真。優大くんの生きる力に家族全員が勇気をもらいます
奇跡の生還を遂げて、自宅で撮った記念写真。優大くんの生きる力に家族全員が勇気をもらいます

 2011年3月11日に起こった東日本大震災では計画停電の影響もあり、優大くんの医療的ケアを行う電源を確保するため、幸恵さんと優大くんは長崎に避難します。震災の前日、幸恵さんは優大くんの顔色がとても青白く、具合が悪そうなことを心配していました。それは、後に医師から診断される「急速進行性糸球体腎炎」という腎臓の病気の発症……。長崎へ避難した数日後に、貧血症状で容態が悪化します。救急車で病院に搬送され、輸血と人工呼吸器の処置を受けて再び入院。東京に残った広数さんは知らせを受けて、すぐに長崎へ。

「僕達にとっては分かる優大の“いい表情”。パパ、まだ大丈夫と伝えているんです」(広数さん)
「僕達にとっては分かる優大の“いい表情”。パパ、まだ大丈夫と伝えているんです」(広数さん)

 「病院に駆け付けると、優大は目を開けてくれました。『パパ、まだ大丈夫』と言うように、優大の目は意思を持っていました。会社には長崎での在宅勤務を許され、家族が一丸となって寝泊まりしながら付き添い、奇跡の再来を願いました」

 広数さんは自身の腎臓を提供することを医師に相談。医師からは、「健康な大人の体を傷つけてまで、消えゆく命を救うために移植手術をすることは倫理的にできません。それに、優大くんにはそんな大手術に耐えられる体力は残されていないのです」と告げられ、「もうなるようになるしかない」と覚悟を決めます。

 入院から約1カ月、4月17日には優大くんの体温はとても冷たくなり、18日には命の灯が消えてしまいそうな状態までに衰弱します。翌日19日は、広数さんの誕生日。幸恵さんは、優大くんから「あっくんを呼んでほしい」と言われているように感じ、すぐ連絡して次男・あつきくんを病室に呼びました。

 弟との時間を過ごし、2時間ほどで徐々に心拍数が下がります。「抱っこしていい?」とパパは優大くん、ママはあつきくんを抱きしめます。そして、優大くんは最後の最後まで命を輝かせ、パパの腕の中で息を引き取りました。

 「普通だったら泣き叫ぶようなシーンですが、『僕やり遂げたよ!』という優大の気持ちが伝わってきました。『まだ、逝かないで』という言葉は不思議と出てきませんでした