「大切なこと」は教えないと育たない

 最近、子どもを山の中に放置するといった行き過ぎたしつけが世界中から注目された事件もありました。

 「しつけ」は、子どもが間違ったことをしたら正すことです。時には優しく諭し、時にはきつく叱ることもあるでしょう。でも罰を与えることが「しつけ」ではありません。罰というのは、幼い子どもにとっては、ネガティブな副作用こそあれ、正しい行動に導くポジティブなメッセージは何もないと考えられるからです。

 ずいぶん昔のことですが、私自身、小学校就学前後の幼いころに、ひどく叱られて暗い蔵の中に長時間閉じ込められたことがありました。多分反抗したからだと思いますが、何がそんなに悪かったのかも分かりませんでしたし、そこから何かを学んだというような記憶も一切ありませんでした。

 ただ、当時の蔵の暗さや冷たさと、時とともに広がる恐怖心は、あれから半世紀以上経った今でもはっきり甦ります。大きな心的外傷が残らなかったのは、幸いでしたが…。

 欧米では、テーブルマナーの習得の一環として、食事の間は椅子に縛り付ける、という粗い手法があると聞きます。食事の際に歩きまわるのを防ぎ、また腕を大きく動かさないで食べるようにしつけるためだそうです。

 幼児が食事中に歩きまわるのは、わが国でもよくあること。椅子に固定して、抜けられないような子ども用チェアや、安全のためのシートベルトのようなものも市販されています。

 でも、きつくガチガチに固定されていては、せっかくのお食事もきっとおいしくないはず…。固定ベルトも、あくまで安全のためと考え、椅子から降りると食事も終了といったルールを決めて徹底させるなど、方法は他にもあるように思います。

 「しつけ」と称する罰を与えられ、痛々しい格好の子ども。果たしてこれは、子どもの心や身を美しくしていると言えるでしょうか?

 「しつけ」と言われるものの大半は、子どもに生来備わっているものではありません。「大切なこと」は見守るだけではなく、教えないと育たないものなのです。子どもが将来自立して幸せな人生を歩むために必要なことを身に付けさせることが「しつけ」であると考えてください。

 集団生活が始まれば、子どもはそこでもしつけを学びます。けれども幼い時期にパパやママから直に聞いたことは深く記憶に残っています。

 親子の関わりでは、子どもと一緒にいる時間の長さより、中身の方が大切です。短い時間でも、たくさん褒めて、ゆっくり諭し、時には叱り、愛情を込めて手取り足取り伝えていく…。 今の時代だからこそ、そんな昔ながらの「しつけ」の形を見直していただきたいと思います。