その常識がどこからやってきて、これほど強化されたのかを考えてみると、やっぱり自己責任を問い、問われる、という空気が徹底されているからだと思う。あと、子育てというもの、子どもという存在そのものが多くの親にとって一大プロジェクト感が大きく──つまり昭和の子沢山、子どもが子どもの面倒を見るのなんて当たり前、小さなことは気にしない、時報が鳴ったら帰ってくるやろ的な、ある意味でおおらかだったコミューン性みたいなものがとくに都市部では消滅したせいもあるのだと思う。

 どんな親しい間柄の関係においても、「責任」の所在を問い、問われることが当然になった。この厳しさにはもちろんいい面もたくさんあるだろうけれど、多くの親に慢性的に「どんな失敗も許さないし、許されない」みたいな緊張を強いることになる。そのときどきにかたちを変えて、何かから、どこかから、ずっと監視されてるような感じ、やっぱあるよねえ。もちろん、社会からの「監視」がある面において子どもを救うこともあるわけですが。

子どもがお荷物やノイズでなく「社会の一員」になるには

 だから、そんなふうに「何があるかわからない」以上、他人さまの子どもを預かるのを躊躇するのは、ごくごく自然な反応だと思う。だから誰も頼まないし、頼まれない。親族か、他人であれば契約を交わしたシッターか保育園やそれに類する場所に預ける以外はない。だから、「社会で子どもを育てる」「子どもは社会のもの。社会から預かって、社会に返す」という言葉をきくと、そんなことを言ってくれる人たちがいることにうれしくて涙が出そうになるけれど、その理念や考えかたが、実際にどういうかたちをとるものなのかが、わからない。「自分の子どもは自分が育てる」以外の選択肢を、この5年、実感したことがないのだ。保育園の近所に「ばあば」なる、昔から住んでいらっしゃる方がいて、ばあばが色んなことを教えてくれ、ふれあってくれ、そこにいてくれるだけで本当に助けられたという経験はある。けれど、それもやはり「ばあば」というその人個人との関係性であった、という感じがしてしまう。

 どうしたらいいんだろう。どうやったら子どもを社会で育てることになり、子連れの親が「すみません」の姿勢から解放され、子どもが、お荷物やノイズでなく、社会を構成する人間のひとりであると認識されるようになるのだろう。