「人生何があるか分からない。仕事は続けなさい」と母からのアドバイス
―― そんなお母様から、粟生さんはユニークな人生訓を受けていたとか。
粟生 そうなんですよ。母は自分が専業主婦志望だったので、「いい夫を早く見つけて結婚して、専業主婦になりなさい」ということはいつも言ってました(笑)。でも一方で、「仕事は続けたほうがいい」ということも言っていて。どっちなんだ! という感じですけど(笑)。
―― お母さんは何歳ごろまで仕事をしていたのでしょうか。
粟生 私が大学2年生のときに体を壊したのもあって、55歳で辞めたんですが、それまで同じ会社で働き続けていましたね。結局、人生何が起こるか分からないから、働き続ける選択肢はあったほうがいい、ということでしょうね。あともう一つの教訓は、「異性の友達を多くつくりなさい」というものでした(笑)。
―― 「異性の友達」とは具体的なアドバイスですね。それはどうしてですか?
粟生 女性の友人は結婚したら、夫の転勤で引っ越したり、経済状況も変わったりして、離れ離れになりやすいけど、男性は基本的に働いているし、困っているときに身近にいて助けてくれるはずだから、男性の友人を増やせば?って。私が住んでいる中部地方は、比較的保守的な環境だったんです。当時の時代もありますが…どんな母親だ、と思いますよね(笑)。
―― 斬新です(笑)。でも、当時の環境を背景に、親として娘に伝えたい真っすぐなアドバイスですね。
粟生 私が理系の道に進んだということもありますが、結果的には男性の友人が増えました。そして、その同級生・先輩たちに助けられて仕事のご縁ができたりということもありましたから、母のアドバイスはあながち間違ってなかったな、と思います。
大勢の大人たちに見守られて育った原体験が宝
―― お父様は、祖父の事業を継がれたということで、ご実家は代々事業を営んでいたのですよね。
粟生 そうです。祖父が実は結構いろんな事業をしている事業家で。当時は3つくらい事業を行っていました。
―― 小学校時代は、放課後をお父様の仕事場で過ごしたりということもあったのでしょうか。
会社員を経て、経営者となった父との一枚。「職場の方や業者さんなど、常にいろんな大人が出入りする家で楽しかった。今、自宅にナニーさんにお願いすることに抵抗がないのもその原体験があるからかもしれません」(粟生さん)
粟生 少しずつですけれど私が中学校に上がるころには、父の事業が割と大きくなって。小学校の夏休みには、私の預け先が見つからなかったらしく、仕事場に連れて行ってもらったこともありましたね。何をしていたのかあまり覚えてないですけど、多分、職場の方にお茶を入れたりしていました(笑)。
中学のときは職場の方が親の代わりに駅まで迎えに来てくれたこともあったし、たくさん業者の人が訪ねてきたりということがしょっちゅうありました。祖母も一緒に暮らしていたし、常にいろんな大人が出入りする家で、楽しかった。それもあって、今、自宅にナニーさんを呼んで、家事や育児を任せるのに抵抗がないのかもしれませんね。
―― 様々な大人に囲まれて育った環境が、粟生さん自身の子育て観に結びついていったのですね。