いつかはやりたいと思い続けてきたこと、働きながら見つけた新しい夢…動き出せるチャンスがいつ巡ってくるかは人それぞれ、何かに挑戦するのに遅すぎることはありません。自身の中から湧き出る思いを原動力に、人生後半で新しい世界への一歩を踏み出した人たちを紹介します。

何歳からでもチャレンジ!

 40代を過ぎてからでも好きなことを仕事にできる。それを体現するのが、似顔絵師の吉村眞由美さんだ。関東各地のイベントで多くの人の似顔絵を描き、カルチャーセンターの講師として教壇にも上る。似顔絵師になる前の約25年間は、家事や育児を中心にパートタイマーとして家計を支え続けていた。そこから一体、どのようにして自分らしいキャリアを築いていったのか話を聞いた。

月給5万円の下働き生活に疲れてしまった

編集部(以下、略) 約25年間、家事と子育てを中心に生活してきたということですが、その間もずっと似顔絵師になりたいという気持ちがあったのですか?

吉村眞由美さん(以下、吉村) いえ、まさか似顔絵がお金になるとは思っていませんでした。ただ幼少期から絵を描くのが好きで、授業中は必ず先生の似顔絵を描いていましたね。中学に上がると学科ごとに先生が変わるので、たくさんの先生たちを描けてとてもうれしかったのを覚えています(笑)。

 小学生の頃から夢見ていたのは、商業デザイナーでした。私は北海道の稚内市に生まれ育ったのですが、近くに美術系の学校はなかったので、高校生になったら札幌に出ようと思っていたんです。でも、小学4年生の頃に父が事故で亡くなり、そんなことは言っていられなくなりました。

吉村眞由美 似顔絵師
吉村眞由美 似顔絵師
よしむら・まゆみ/1957年、北海道生まれ。高校卒業後、生活協同組合コープさっぽろに就職 。結婚退職し、3人の子育てをしながらスーパーのレジ打ちや工場などでパート、保険外交員などの職歴を重ねる。46歳を迎えた頃に似顔絵やイラストの勉強を始め、47歳で似顔絵師として似顔絵プロダクションからデビュー。48歳で独立し、55歳で似顔絵師を専業にする。関東を中心に似顔絵イベントに参加し、年間約1000人の似顔絵を描く。その他、多数のカルチャーセンターで似顔絵講師として講座を持つ

吉村 母子家庭でまだまだ学費のかかる弟もいましたから、普通科の高校に進み、卒業後は札幌の生協に就職しました。生協にしたのは、寮があったから。1カ月の寮費がたったの6000円だったんです。でも、当時月給は10万円もなく、その中から実家に2万円の仕送りもしていたので、手元にはほとんどお金が残りませんでした。

 本当は、昼間働いて夜間に美術系の専門学校に通いたかったのですが、学費はとても出せないし、日中の立ち仕事でぐったりと疲れてしまって勉強するどころではありませんでした。

―― 夢を諦めてしまったのですか?

吉村 いえ、その時点ではまだ諦めていなくて、そんな状況が嫌で生協を1年で退職し、デザイン事務所の下働きに入ったんです。

 北海道銘菓の「白い恋人」のパッケージ修正を手がけるなど、仕事内容はとても楽しかったのですが、今度は月給がたったの5万円。家賃が1万円でしたから、もう貧乏生活に疲れてしまって、前職の生協で出会った夫と21歳のときに結婚し、子育てに専念することにしたんです。