何歳からでもチャレンジ!
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40代を過ぎてからでも好きなことを仕事にできる。それを体現するのが、似顔絵師の吉村眞由美さんだ。関東各地のイベントで多くの人の似顔絵を描き、カルチャーセンターの講師として教壇にも上る。似顔絵師になる前の約25年間は、家事や育児を中心にパートタイマーとして家計を支え続けていた。そこから一体、どのようにして自分らしいキャリアを築いていったのか話を聞いた。
月給5万円の下働き生活に疲れてしまった
編集部(以下、略) 約25年間、家事と子育てを中心に生活してきたということですが、その間もずっと似顔絵師になりたいという気持ちがあったのですか?
吉村眞由美さん(以下、吉村) いえ、まさか似顔絵がお金になるとは思っていませんでした。ただ幼少期から絵を描くのが好きで、授業中は必ず先生の似顔絵を描いていましたね。中学に上がると学科ごとに先生が変わるので、たくさんの先生たちを描けてとてもうれしかったのを覚えています(笑)。
小学生の頃から夢見ていたのは、商業デザイナーでした。私は北海道の稚内市に生まれ育ったのですが、近くに美術系の学校はなかったので、高校生になったら札幌に出ようと思っていたんです。でも、小学4年生の頃に父が事故で亡くなり、そんなことは言っていられなくなりました。
吉村 母子家庭でまだまだ学費のかかる弟もいましたから、普通科の高校に進み、卒業後は札幌の生協に就職しました。生協にしたのは、寮があったから。1カ月の寮費がたったの6000円だったんです。でも、当時月給は10万円もなく、その中から実家に2万円の仕送りもしていたので、手元にはほとんどお金が残りませんでした。
本当は、昼間働いて夜間に美術系の専門学校に通いたかったのですが、学費はとても出せないし、日中の立ち仕事でぐったりと疲れてしまって勉強するどころではありませんでした。
―― 夢を諦めてしまったのですか?
吉村 いえ、その時点ではまだ諦めていなくて、そんな状況が嫌で生協を1年で退職し、デザイン事務所の下働きに入ったんです。
北海道銘菓の「白い恋人」のパッケージ修正を手がけるなど、仕事内容はとても楽しかったのですが、今度は月給がたったの5万円。家賃が1万円でしたから、もう貧乏生活に疲れてしまって、前職の生協で出会った夫と21歳のときに結婚し、子育てに専念することにしたんです。