何歳からでもチャレンジ!
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大人になってからの挑戦の中でも、医師や弁護士といった専門性の高い職業はとりわけ難易度が高いもの。目指すのは、そもそも勉強ができる人……と、多くの人が想像するでしょう。しかし、53歳で医師免許を取得した前島貴子さんは、「中学時代の成績はクラス最下位。医学部受験なんて無謀だと周囲から大反対された」といいます。
劣等感を抱き続けた10代を経て、短大を卒業して社会人になってからも挫折に見舞われましたが、32歳のときに医学部受験を決意。7浪の末に合格をつかみ、3度目の挑戦で国家試験に合格しました。途中で断念してもおかしくないこれだけの長い道のりを、前島さんはなぜ諦めずに進み続けることができたのでしょうか。
成績はクラス最下位、「おまえはダメだ」と言われ続けた
「小学校でも中学校でも、常に先生から『おまえはダメだ』と言われていました」。前島さんは子ども時代をそう振り返る。「周りからダメだと言われ続けると、自分でもそうなんだと思ってしまうんですよね。『やってもどうせダメだろう』と。決して勉強嫌いで怠けていたわけでも、遊んでばかりいたわけでもありませんでしたが、どこから手を付ければいいか分からないから、成績は常にクラス最下位でした」
一方で、後の医学部挑戦につながる一面も。「自分が一度これはと思ったことに対しては、ためらいなく行動するんです。私が小学生の頃はピンクレディーや山口百恵が大人気だったのですが、自分ももしかしたらと思って、住んでいた島根から新人歌手のオーディションに応募したんですよ。歌なんてめちゃくちゃへたなのにね。卒業文集には将来の夢は歌手か医者と書いていました」
ここで「医者」が登場するのは、5歳のときの体験が関係している。「うちは両親が共働きで、子守をしてくれていた近所のおばあさんに連れられてお祭りに行ったんですね。そこで金魚を買ってもらったのですが、サーカス小屋みたいなところへ立ち寄っているときに袋からパーンと飛び出してしまった。私はその場から動けず、地面で苦しそうに跳ねている様子がとてもショックでした。そのときから、命を救いたい、困っている人を助けたいと思うようになりました」
関心があったとはいえ、学校での成績を考えれば医師が具体的な進路の目標となることはなかった。県内の高校を卒業した後は東京の短大に進学し、そのまま東京で働き始めたが、前島さんはやがて「自分をもう一度立て直したい」と思い始める。「幼いときから両親は不仲で、商売をやっている母にはあまり構ってもらえなかった。寂しさやストレスから繰り返し髪の毛を抜いてしまう抜毛症になったり、摂食障害になったりしたこともありました。不安定な気持ちを大人になっても抱えたままで、どこかで切り替えて前に進まなくてはと思いました」
大学に入って前向きに出直すも、待っていた挫折
島根に戻った前島さんは26歳のときにAO入試で島根大学に入学。自身の経験から心の問題に興味を持ち、臨床心理士を目指すことにした。薬種商販売業(現在の登録販売者)の資格を取って、母親が経営していた薬局の1店舗を任され、昼間は大学に通い、夜は薬局で働いた。
興味を持って取り組む勉強は楽しく、在学中からアルコール依存症や摂食障害などを抱えた人たちに集まってもらうセルフミーティングの会を開くなど、意欲的に活動していた。だがある時期、会の参加者の中で家出やリストカットといったトラブルが続き、あなたのせいだと責められてしまう。「運営の仕方が未熟だったのかもしれませんが、医師でもない立場で生死に関わる問題の責任を求められるのがつらく、自分には無理だなと思いました」
大学は卒業したものの、臨床心理士は断念。この先何をすべきか悩む中で、「カウンセリングではなく、きちんと医学を学びたい」という思いがぼんやり脳裏に浮かび始める。そんなときに直面したのが、父親の自死だった。