私たち、大企業を辞めました ~準備したこと、すべきだったこと~
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2合コン300回も婚活失敗→安定の法務省→独立した理由
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3IT大手→区役所職員→地方移住 今思う大企業の良さは
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4島田由香 大好きな会社、でも自分のパーパスがまさった
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550代で大企業→ソーシャルセクターへ、準備不足で挫折←今回はココ
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6ストレスMAXで折れた奥歯。移住して人生を取り戻した
会社の米国留学制度でキャリアの軸を見つけた
個人と組織のワークシフト支援を行うLiB(リブ)、伊藤忠テクノソリューションズなど企業の取締役の他、D&Iを推進する一般社団法人ポテンシア代表理事、基金運営や遺贈寄付などを行うREADYFOR(レディーフォー)財団理事として、営利・非営利分野で活躍中の永井裕美子さん。
64歳を迎えた今、自身のキャリアを振り返り、「20代の頃から明確なキャリアプランを描いていたわけではないですが、ミドル世代になったら社会貢献に関わるステージに進みたいと考えていました」と話します。
永井さんは新卒で富士ゼロックス(現富士フイルムビジネスイノベーション)に入社し、40歳で大手グローバル企業に転職。その後、老舗欧州ブランドに勤務し、50歳で新たな道に進むも挫折を味わい、再び外資系企業の会社員に。そして55歳から長年の夢だったソーシャルセクターでの仕事をスタートしました。
「私のキャリアの原点は富士ゼロックスでの営業職です。私が新卒入社した当時はまだ男女雇用機会均等法の施行前で、女性は3年ほど勤務して結婚退職するのが当たり前とされていました。そんな中でも性別ではなく実績で評価されたいと考えていた私は、当時珍しく女性の営業職を新卒採用していた富士ゼロックスに入社。新人時代は今でいうジェンダーギャップを感じることも多々ありましたが、営業として成果を出せるようになると周囲の見る目も変わってきました。ここから自分の未来のキャリアに可能性を感じるようになったんです」
入社5年目の1986年に男女雇用機会均等法が施行されると、永井さんにもさらなるキャリアアップのチャンスが訪れるように。入社7年目の29歳のときに社内留学制度の選考に合格し、米国のコーネル大学大学院で学ぶ機会に恵まれました。この留学で永井さんは、人事について体系的に学び、自分のキャリアの軸が定まったそうです。
「営業職も好きでしたが、長く働くために他の人が持っていない専門性を身に付けたいと考えていたとき、人事に興味が湧きました。86年に労働者派遣法が施行されるなど新しい働き方が生まれ、今後、企業の雇用の在り方や人事の仕組みに変化が起こるだろうと感じたことがきっかけです」